YasujiOshiba

大きな鳥と小さな鳥のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

大きな鳥と小さな鳥(1966年製作の映画)
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DVD鑑賞。モリコーネが作曲しモドゥンニョが歌ったオープニングを確認。いやはやクレジットを歌ってしまったのだけど、そのクレジット自体が歌うことを想定し、しかも遠過去の時制で書かれている。

遠過去は主観的な時間意識として、現在とは離れた過去を語り起こすときの時制。しかし映画の内容はとてもアクチュアル。背後にあるのは、たとえば戦後のイタリア共産党を率いてきたパルミーロ・トッリャッティ(1893-1964)の葬儀。そこにパゾリーニは、理念としての共産主義の終わりを読み解こうとするかに見える。

この同時代性は、しかしながら、遠過去で語られることで、なにか古の訓話、あるいはパラブル(例え話)のように聞こえるわけだ。なにしろナポリの喜劇王トトに、ローマの貧民街育ちの無邪気な天使ニネット・ダーヴォリが演じる親子に、共産主義イデオロギーの依代となったカラスが交わるのだ。それだけでもすでに、なにかの例え話のようではないか。

さらに、このカラスが、かつて聖フランチェスコのもとで鳥たちに布教したふたりの修道士の話をしてみせるのだが、その語りの修道士を演じるのがまた、ほかならぬトトのダーヴォリであり、ふたりが布教しようとするのがハヤブサとスズメだというのも、なにやら意味深だ。なにせこの語りをしているのがカラスなのだから。

そのカラスが、ふたりの修道士に布教された鳥の末裔だとすれば、その末裔のカラスは今、かつての修道士と同じ姿のトトとダーヴォリ親子に、しかも人間の言葉で話しかけているというのは、実に循環的な構造をしていて面白い。なにしろ、フランチェスコ会修道士のふたりは、ハヤブサやトリに話しかける言葉を知るまで、実に大変な苦労をする。だからカラスが人間の言葉を話すにも、同じように大変な苦労があっただろうと考えられるのだから。

そんな入れ子構造は、現在のイタリア社会におけるキリスト教と共産党が、ムッソリーニの涙通りに象徴されるファシズムの終焉を経て、欲望にまかせて盲目的に行く当ても知らず進んでゆく、消費主義社会に入っていることを思わせる。象徴的なのはあの作りかけの高速道路だろうか。

どこにそんなに急いでゆくのか。そんなに急ぐ必要なんてないだろうと思わせるように、トトとダーヴォリはテクテクと空腹を抱えながら歩いてゆくと、やがてカラスをじっと見つめることになる。それがたとえ言葉を話すカラスだとはいえ、カラスはカラス、鳥は鳥。食べられないことはない。

そんな即物的な欲望が、やるせなくもグロテスクで飲み込みがたい物語、あるいはパラブルを駆動していたという、そんな初めからバレている種を明かすような種明かしの長い物語に、そっと寄り添って、みごとに映像の底を抜いて、奥行き与えながら、情動の立ち上がる空間を生み出すのが、名匠モリコーネの音楽。

いかにも同時代的なロックナンバー「お日様のもとでのダンススクール」から、軽やかで冗長だけれどどこか滑稽な「カラス先生」、「フランチェスコによる鳥へのお説法」のテーマの荘厳さ、トッリャッティの葬儀シーンの大袈裟でシチリア的な「葬送曲」など、それぞれにすばらしい出来栄え。なるほどその後のパゾリーニが、モリコーネに信頼を置くのがよくわかる。

なにしろパゾリーニ、このときモリコーネとははじめての仕事。最初は、別の作曲家の音楽も使うことを考えていたのだが、モリコーネが拒絶。それなら自由に作ってかまわないと、全面的な信頼をよせたのだという。
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