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丹下左膳餘話 百萬兩の壺のkaomatsuのレビュー・感想・評価

丹下左膳餘話 百萬兩の壺(1935年製作の映画)
5.0
コメディ映画の“お約束”を確立した、日本映画史上の傑作というだけでなく、マイ・フェイバリット映画の5本指に入る、メチャクチャ愉快な作品。そして、チャンバラの伝説的ヒーローであった丹下左膳=大河内傳次郎のすさまじい殺陣の動きが、わずかながら確認できるという、映画史に残る貴重な資料でもある。殺陣の達人といえば、私の中では横綱が三船敏郎、東大関は勝新太郎、西大関は若山富三郎という位置付けだったのだが、この作品を観てから、番付は激変。大河内傳次郎がダントツの一人横綱となり、三船以下は大きく差をつけられて大関・関脇に格下げとなった。

この映画には、昨今の映画が忘れてしまっている重要な要素がある。それは、原作を大きく逸脱したことで、独立したひとつの映画として、普遍的な面白さを獲得したことである。そもそも、林不忘の原作による丹下左膳は、仕えていた大岡越前に裏切られ、隻眼隻手となった、その悲壮感とニヒルさを売りとし、主に伊藤大輔監督によって映画化されていた。ところが伊藤監督が日活退社後、山中貞雄監督が代わってメガホンを取った結果、きわめてぐうたらで人情家、孤児の対応にオロオロするという、前代未聞のコミカルな丹下左膳が誕生した。これが原作者である林不忘を激怒させたのだが、結果的には、80年以上経った現在でも愛され続ける、傑作映画となったのである。昨今の話題作の中には、いわゆる“ベストセラー小説”を忠実に再現しようとするあまり、原作のストーリー展開をそのまま登場人物にセリフで言わせるような、いい意味でのムダがなく、窮屈でステレオタイプな作品が多い気がする。原作小説に隷属せず、映画として独立した表現媒体にするためには、原作者の意図から作品がいったん切り離され、監督の作家性に委ねられることが必要なんじゃないか、と思うのだが、なかなか…。作家性より興行性が映画監督に求められ、映画界よりも文学界のほうが格上とされる、日本の歴史的・文化的ヒエラルキーと、日本の映画産業システムの在り方に関わる、難しい問題でもある。この映画は、そんな状況に風穴をあける起爆剤ともなりうる要素をもっている。その意味でも、きわめて尊い作品だと思う。
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