jami

ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界のjamiのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

宮崎駿最新作を見て突きつけられたものは、この映画の「意味」を超えていた。意味が大事なのではない。つまり公共的価値が大事なのでもない。大事なのは自分だ。それを前提とすべきだ。我々は観客(商売)を前提としすぎた。公共性や数字も大事だが、それらは結果でしかない。

以下初見時の感想。

予告編の時から期待していたが、
9分ものプレビューを見て確信、
さらに本編冒頭15分ほども最高

こういう映画が見たかったのだ

細かいことは言わない。何もかもが一目瞭然だから。価値の横溢。ベストムービー更新。自分でも驚くが、オールタイムベスト1位。豊かな色彩と空間、アイデア。名作のオマージュ。



電気芽キャベツはザ・ロックのアレだと個人的には思うし、BTTFのアインシュタインの買い主には現実のアインシュタインを重ねた。




ハマらなかった人は多いようだ。自分は、ひとり旅立つ父親(デニスクエイド!)にそもそも共感、感動していたから、むしろ主人公の農薬だの功罪だのに違和を覚えたが、これも勿論意図的で、父親に「人間の人生」、主人公に「進歩の裏表」、息子に「Z世代の感性」を担わせており、実は主人公の役回りが「特殊」で「損」な感じ。おそらくこの構造こそ、ハマらない人の多さに繋がっているのだと思う。

「面白くなかった」という感覚がポリコレを捕まえて否定的に語る、という現象が、アンチポリコレ語りの単純な構造だと思われるので、政治的に正しい映画に対して肯定的な感想を持った場合、マイノリティだの多様性だのについては語らないのが最善。政治的正しさは、単に現実世界のデフォルメに過ぎない。

ドライブマイカーの政治的正しさは、この映画より更に気にならなかったが、面白かったから、という一義的理由以外にも、おそらくあの映画の、非現実的な導入部や、馴染みのない職種の特殊な日常、題材としての棒読みにも理由があるのだろう。この映画の場合はおそらく逆で、荒唐無稽な演出がむしろ現実的な引用を引き立たせていた可能性がある。とはいえ、ノイズだという主張の理由は、一義的には「ノれなかった」という理由しかないと思われる。

一番気になったのは世界の全容を見せてくれたこと。見せてくれないのか…確かに宇宙の形なんか分からんもんな、と思っていたので、カメラが引き始めて興奮もしたが、がっかりもした。形が見えてしまうとつまらない。これもまた監督の言いたいことかもしれない。つまり、制作サイドは「絶対に見せろ」だったはずだから。客を信用していない映画になってしまったようにも見えた。
のんしゃらんとした結末もどうだろう。あまりに人や社会が成熟している。現実の人や社会はもっと未熟だ。共生や平和は、もっと残酷なものだ。だから正義(を振りかざす人間)を否定するのは並大抵ではない。
「まだ間に合う」というのも現在的ではない。「もう間に合わない」と思える。我々には何もできない、そういう現在だ。目に見えないミクロな生命力を称えても、目に見える巨視的な現実はもっと精神的な問題を抱えている。それこそ目に見えない。だからテーマになりうる。

とはいえ、映画スタッフの中に尊敬する人の名前を見つけたので、1位はそのまま。彼のイマジネーションや彼を尊敬する若い人たちがこの映画の色彩に寄与したのだろうと想像する。

繰り返しになるが、この映画は父親が一人、旅だったことから始まっている。自分にとっては冒頭15分が決定的だった。一人かどうか、一人であることを引き受けたいかどうか。こういう感覚は自分たちの世代が最後だと思うが、あの父親こそ、世界を救う鍵なのだ。映画としてもそうなっているし、1969年生まれの監督も、世代は違えど同じように思っているはずだ。自分ごとのように、社会や世界を見ている。なんとか解決したいと虎視眈々、不可能とも思える社会課題に挑みたいと考えている。若い人の中にもアクティビストという形で顕在化しているが、グレタさんは最初一人だった。「一人」というのが鍵なのだ。一人でもやる。自分を信じてやる。ただそれだけだ。(連帯はむしろ分断を産んだりする。対立は継続性を軽視したりする)。この映画は、その結果として、下の世代を助けたり、世界を救う力の一つになれている。もしあの時、ひとり旅立っていなければ…この構造は孫キャラにもある。もしあのとき、未知の生き物に寄り添う行動(傷の手当て)をしていなければ。繰り返すが、主人公だけが功罪担当だ。彼の行動が世界に「便利さ」と「危機」をもたらした。

一人旅立つことだけが、あるいは寄り添うことだけが、未来を変えうる。
jami

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