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マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺のfilmoGAKUのレビュー・感想・評価

5.0
病んだ精神を治癒させる試みで「演じる」ことを患者に施すことを古くから行って来ていたことは知っていた。エチュード(即興の寸劇)が、「患者」だけでなく、一般にも、人との関係性を再構築、自己の表現行為(単なるおしゃべり、発話も)などを、一旦解体し、再び虚構の中でリセットさせ、個々人に「気づき」を与え、そして再度その「戯曲」を演じる行為により錬金した「真実」を見つけ出す。「真実」とは、そこに観客がいるのか否かに関わりはなく、各自身にとっては、治癒された心の安らぎかもしれないし、あるいはドラッグのように単なる自己陶酔感かもしれない。または、こうあって欲しい、こうあって欲しかったという理想や、悔いからくるもう一つの可能性、もう一つの未来といったようなものかもしれない。

その既存のものを解体することから始まり再構築という、言語的な演ずる行為のプロセスは、赤ちゃんがゼロから言語(単なる言葉ではない)を獲得していく過程であるというよりも、むしろ成熟した成人が、あるいは、新たに誕生した人類が、「言葉」を獲得していくプロセスに似ていると思う。

現代の私たちの「言葉」に染み付いた既成の思い込み(誤解)や手垢に染まった「意味」、オブジェの「象徴」や等式で結ばれる「記号」などと言ったものも、生活の様式や文化が違えば全く違ったものを表すという自明のことでさえ、消費社会、いまの文明と言われる中にどっぷりと浸かっていると完全に見えなくなってしまっている。「青」は決して「青」ではない、自戒も込めてそう思う。このフィルムについては、完全に狂っていると思う。でもその狂っているってことはいわゆる「狂っている」ではない。

「狂っている」を意味しないとわざわざ断っているのだから、「狂っている」が何を意味しているのかを問うべきだ。だからそれが何を意味するのか、理解するため、あるいは理解されるために語っていくもの。それが人の間の言語を介したコミュニケーションというもののはずで、「演ずる」とはその原理、身体を併せもつ言語的な実演、実験 -「表現」のこと。

この映画、それは、高密度の熱量(エネルギー)が理に逆行して一点に収束・収斂、収縮、その瞬間には大爆発を起こす。その前兆のよう。観客は、ことばが生まれる「創世記」を目の前に、全てを俯瞰し、そこに立ち会い、まさに何者かの目になった思いがする。

以前観た『蠅の王』(1963年)絡みで今作も観たんだが、ブルック監督の演劇論、指導ドキュメンタリーは昔に勧められるままに鑑賞していた。2018年3月4日。
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