こうん

SHE SAID/シー・セッド その名を暴けのこうんのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

最初に白状しますが、私はハーヴェイ・ワインスタインの犯罪を許容した、もしくは作り出した社会の一員で、ギルティです。
「82年生まれ、キム・ジヨン」と本作の原作である「その名を暴け」を立て続けに読んで(あと田房永子さんのマンガも)、考え方が変わったというか正したというか、自分がどこに立っているかということを思い知ったのが数年前。自分が当たり前に属してきた社会で、男性である特権をいかに無自覚に享受してきたか、はたまた女性たちを(それは母親にさえ)いかに無自覚に抑制圧迫脅迫してきたうえで自分のアイデンティティが成立していたのか、という気付いてこなかった現実に直面し、今もそのギルティにまだ狼狽している最中です。

本作に即して自分のギルティを言えば、ハリウッドがそういうところだということは映画史を学ぶ中でずっと前から知っていました。“キャスティングカウチ”の存在も。ワインスタインがセクハラ野郎だということも(小さな小さなニュースで)伝え聞いていたし、アシュレイ・ジャッドさんがなにかされて干されているっぽいことも(さらに小さいニュースで)2000年代前半には知っていました。でもそれを「ひどい」とは思わず、「そういうこともあるしそういう世界よね」と考えてました。
また、イーストウッドがかなり女性に対して無責任で不誠実なことをしてきたのを知りつつ彼の映画を崇拝していたし、ウディ・アレンやロマン・ポランスキーが過去に起こしたことも知りつつ「それはそれ、これはこれ」と彼らの映画を楽しみ時に称賛していました。
でも今は…ウディ・アレンの新作もポランスキーの新作も観ないけど、イーストウッドの新作は駆けつけている…という混迷ぶり。ギルティです。本作にも出てくるローズ・マッゴーワンさんがアレキサンダー・ペインを訴え出てたことにはびっくりしたけど続報がなくペイン監督の新作の情報に「楽しみ!」とか思っているし、ブラッド・ピットが元妻とDV疑惑で揉めてたりするのは知りつつ「漢ブラピ」と書いたりもするし、ジョニー・デップVSアンバー・ハード闘争は(ヴァネッサ・パラディのファンなので)ジョニデの肩を持ってました。日本の映画界においても歴史を振り返ればいくらでもそういう話はあるし新井浩文や園子温や榊英雄に限らずその蟷螂の斧のごとき権力の下で好き勝手やっている連中の話をいくつも知っているし(監督やプロデューサーじゃなくとも先輩が後輩を、というのはいっぱいあるのを聞いたし見たし)、その性加害について多くの大手映画製作会社・配給会社は特に声明を出してないし「インティマシー・コーディネーターつけまっせ」でやり過ごそうとしている気すらあるくらい。映画館という場だって、アップリンクとかユジクとか最近だと新文芸座とか、色々な問題がありすぎるし…

気付いてみれば、看過してきた「そんなこと」が有罪の顔で僕の好きな“映画”の世界のあちこちに佇んでおり、「お前はどの面で」と問いかけてきます。

…というような僕が、この映画に対して何を言えようか、ってことですね。

「SHE SAID」よく出来ていたし面白かったしその熱量と気迫には前のめりになったし現実と斬り結ぶ刃のようなエンディングにはゾクゾクした。
でも僕がこの映画についてなにかを語ろうとすると言葉が上滑りしていくような気がしています。
そういうことを踏まえてあえて言葉を発することが許されるならば…

ジョディやメーガンや被害女性たちが闘おうとしているのはハーヴェイ・ワインスタインひとりではなく、いまだ数多く存在するワインスタインと、その存在を産み出し許容し守ってきた男性主権社会という有史以降連綿と続く現実であり、想像を絶する強大で巨大な存在。その現実に勇気凛凛で挑むなんてことは一瞬もなく、怯え迷い畏怖し逃げ出したくなりながらも少しずつ手に手を取り合いながら手のひらからこぼれそうな勇気を共有し、現実にひびを入れる力を携えて拳を振り上げた彼女たちに心から尊敬の念を抱いたし、やるかやらないかで“やる”ほうをを選んだ勇気ある人々を心の底から称賛します。
死ぬほど怖い目に遭ったのに異を唱えることでまた死ぬほど怖い目に合うかもしれないのになおも声をあげることが、いかに怖ろしいことか。

その勇気は、いま確実に世界を変えつつあるし、しかし少なくないバックラッシュもあるわけで、負けずにくじけずに声をあげ続けないと強大な現実にかき消されてしまう。
そしてひとつの時代を変え得るこの調査報道のルポタージュが、映画という大衆に膾炙することのできるメディアで再び世に出ることは、意義しかないし大正義だと思います。大快哉です!

そしてこの映画の性格上、言うのも憚られるけど映画にするうえで大事な要素ではあるので言いますが…面白かった…!
ダイジェスト、というワードは主に悪口で使われますけど、原作をうまいことダイジェストにしていると思いました。
地道で丹念な調査報道ルポで登場人物も時系列も様々に語られ、ある意味複雑な原作を、わかりやすくシンプルかつ効果的な構成と映画的な肉付けでアダプテーションされていて、「たぶん映画化されるだろう」と思って想像しながら原作読んでいたんですけど、いやーいい脚色だと思いましたね。
とくに原作では書き手であるジュディやメーガンの状況や感情は最低限に冷静につづられている程度だったんですけど、この映画では活きたキャラクターとして立体化させそこに映画の主題とシンクロする表情や声を付与しており、被害者と観客を結びつける感情装置として素晴らしかったと思います。
ゾーイ・カザンもキャリー・マリガンはもちろん、NYタイムズの同僚のパトリシア・クラークソン(アメリカのYOU)さんも、あと「ミスト」では話が通じない隣人の弁護士だったアンドレ・ブラウアーさん(出てきたとき「あっ…」と思ったw)も頼もしくて、とくに上司であるクラークソンさんの「あんたら帰りんさい、ウチがやっとくけん」というワークシェアリングマインドは見習いたいです。
ジョディとメーガンのそれぞれのパートナーの描写の塩梅も良かったし、ああいう夫を目指そうと拳を握りしめましたことですよ。

この映画化に際して原作者であるジョディさんとメーガンさんは「ワインスタインを映さない」「性被害を直接描かない」「その代わり実際の証言・録音テープを使用する」「なるべく事実に即して描く」みたいな(うろ覚えです)映画化条件を出し、この条件下でシナリオが書かれ、撮影編集が行われたようです。
正直、観終わって面白かったけれどもやや単調で直線的だと感じたのも確かで、映画的なフィクションを交えもうちょっと重層的に構築したほうが映画としてよかったのではないか…とは思ったんですけど、先の映画化条件を知り、それが被害者女性を最大限慮ったが故の条件である、ということに気付き、改めて自分の不明を恥じたりしました。
(とはいえ、主人公二人のキャラクターの相違はもっと強調してもよいかと思った)

つまり本作は、映画的な面白さを最低限担保しつつ、事実の告発性を最重要課題とした映画だということは有識者のみなさまにお伝えしておきたいです。
映画娯楽・フィクションとしての強度をあげることが、ベースにある調査報道とその向こうにある被害者たちの心のカタチに合わなくなるということでしょうね。

それでも本作に対してフェイクだ陰謀論だいう輩はまだ日本にも一定数いると思うので、お前らあっち行って静かにしてろ。

加害者と男性中心的な社会システムへの怒りと、被害者への同情と慈しみと、そのふたつを両輪として見事に原作を換骨奪胎し映画へとアダプテーションしていると思いますし、そしてあの切れ味鋭いエンディングはフィクションである映画と現実を接続し、「あなたもその罪の中にいるのではないか」と問いかけているようでした。
(「エルピス」もこういう終わり方にしてほしかった、牛丼で乾杯じゃなくて)

GG賞には全然引っかからずノミニーすらされてなかったみたいですけど、2023年この映画が存在する意味と価値について、映画館で考えてみるといいと思います。
初日の新宿の夜の回で観て、入りは半分くらいでしたけど、意外というかなぜかというか、僕と同じような中年以上の男性が多かったような気がします。
みんな(おじさん)はどういう思いで本作を観たのでしょうか。
(シンプルにキャリー・マリガンのファンかもしれん)

でも性別関係なく安全圏にいる無罪の人はひとりもいないはずなので、現実社会を見る意味で映画館に行くといいと思いますし、またセクハラパワハラの大ボスであるトランプ(音声出演してます)が世に出てくる可能性もゼロではないので、未見であれば「プロミシング・ヤング・ウーマン」や「ブラック・ウィドウ」あたりと併せ観て、色々と思考してみるのもいいと思いますよ。
きれいごと書きますけど、老若男女関係なくみんなで考える問題です!
必見!
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