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ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのKKMXのネタバレレビュー・内容・結末

4.7

このレビューはネタバレを含みます

 実に素晴らしいガーエーでした。繊細さと無自覚の暴力性について非常に丁寧に描きつつ、『話す』という人類にとって最も基礎的ながらも難しく忌避されがちなアクションの重要性を説き、人が生きていく上ではやっぱり不可欠にしてこれこそがネクストステージにつながることを高らかに謳い上げた傑作でした。


 恋愛感情を実感できないタイプで、極めて鋭敏な感受性を持つ青年・七森は大学入学後にやはり感受性の鋭い女性、麦戸と出会い意気投合します。そして2人は共に『ぬいぐるみサークル』(通称ぬいサー)に入ります。ぬいサーはぬいぐるみと話をするサークルでした。サークルメンバーは七森と同じような繊細な人たちが多い。同時期にもうひとりの女性・白城がぬいサーに入ります。白城はぬいサーにしては珍しくちょっと派手なタイプで、別のサークルと掛け持ちしており、ぬいぐるみと話をしません。そんな感じで3人は大学生活をスタートしましたが、やがて麦戸は登校できなくなり……というストーリー。


 本作は『話す』ことの大切さを描いた作品です。話すことって、結構怖いです。何故ならば、人に話すことで自分が否定されたり拒否されたりする可能性があるから。これって傷つきます。しかも、大事な話であればあるほど深手を負う。だから、ほんとうのことを話すのって難しいです。
 そうなると人は話さなくなります。どうでもいいことは話すけど、ほんとうに話したい、抱えておけない重要事案は話さない。これが続くとどうなるか。負の感情が熟成されて、感情と自分が一体化しやすくなります。憎しみとか不安とかの感情に支配されて、囚われてしまう。この状態に陥ると、視野狭窄も起きるし、混乱して負のスパイラルにハマって行きます。人によっては明確なメンタル症状が出るかもしれません。
 そんな、カオス化した自分をぐちゃぐちゃした何かから切り離すのは『話す』ことです。『話す』は『離す』。内側のものを言葉にしていくことで、少しずつ整理されて、うまくいけば自分=感情そのものではなく、自分の中に感情の一部が存在することに気づけます。すると距離が取れ、抱えることができるようになるかもしれません。『幻滅』で述べたメタ認知に近い感じです。自分の中に何が起きているのかをチェキできると結構冷静になれるのです。これが話すことの第1ステップですね。

 そして第2ステップは、話しをすることで受け止められ、他者とのつながりを実感することです。『話す』は『離す』で、『放す』。自分の中で離したものを外に放し、放たれた側が受け止める。これこそが人が生きていく上で最も重要なプロセスひとつだと思います。ぐちゃぐちゃな何かが放たれて受け止められることで、大袈裟に言えば放った側は存在を認められて肯定されるのです。
 しかし、これがまたハードル高い。話の聴き方って学校で教えてもらう訳でもないのでスキルは人によってまちまち。そのため、人に話しても受け止めてもらえないことが多々あるのです。なので、本作ではぬいぐるみが登場します。ぬいぐるみは絶対に否定しません(実は肯定もしてないけどな)。ただそこにいて、黙って話を受け止める(話せないもんな)。安全なんですよ、話し手にとって。だからぬいサーの人たちは、結構重要なことをぬいぐるみに話す傾向にあります。
 ぬいぐるみに話すだけで、『離す』『放す』の意味はあるでしょう。むしろ、物言わぬぬいぐるみに話す(=離す、放す)ことにより、自分の気持ちや考えが掴めてくると思います。他にもメリットはありまして、他者とのつながり感のリハーサルにもなりそうです。また、「でもね……」とか言って相手の話を持論で潰さない等、話を聴く態度をぬいぐるみから知らず知らずのうちに学べる可能性もありそうです。

 本作では、ぬいぐるみと話をしていた麦戸と七森は終盤、ついに感じていた思いを語り合えました。彼女や彼が抱えている課題は直接解決されるわけではありません。しかし、2人は互いに受け止め合うことで、何かが変わったと感じました。話すことで自分の気持ちを離して放ち、受け止め合ってつながる。元々繊細すぎるが故に傷つきを恐れて、話すことに抵抗があるタイプの2人だったと思います。そんな2人がハードルを越えて、ぎこちなくも語り合うシーンは、それまでの丁寧な語り口が故に説得力があり感動しました。
 このプロセスを経た2人は、以前よりも本質的にに優しくなったと思います。話して受け止め合う営みこそが成長を促すのだと感じます。

 本作はあまりクドい説明などしない作品です。しかし、話すことの大事さについては、ややしつこいくらいに語っていました。実際に、話すことについてここまで真摯に向かい合った作品はあんまりないと思います。
 本作は傷つきや暴力性、生きづらさに関しての物語でもありますが、話してつながるという最古にして最も本質的なテーマを奥底に持ってきています。聴くスキルを学ぶ機会が少なく事故が起きやすい故に傷つきやすい人ほど避けがちな印象を受ける『話す』ことを、本作は真正面から取り上げてガチンコ勝負をしました。そして、自分はその泥臭さと誠実さに感動しました。話すことについての本作の姿勢は、傷つきや自らの暴力性に恐れ、失望しながらも向かい合った勇敢なる七森や麦戸とパラレルに感じます。


 そして、もうひとつの重要テーマである、無自覚の暴力性についての描写もめちゃくちゃ秀逸です。あのハマよりもさらに繊細に詰めていますね。

 人はすべからく他者を傷つけやすい存在だと思います。気をつけていても傷つけますし、100%防止は不可能です。ただ、気をつければあからさまな傷つけは多少阻止できるとは思います(あと、気をつけようというアティテュード自体が信頼関係を作るとも言える)。つまり、気をつけなければめちゃくちゃ他者を傷つけると考えられると思います。
 デリカシーの無いコミュニティで育ったり、元々他者を慮ることが難しいタイプは気をつけるという概念が無く、たぶんあらゆるところで傷つけをしまくると思います。本作だと、七森の地元の連中が該当します。

 そういうわかりやすい傷つけ連中とは違い、繊細で穏やかそうなタイプを「この人は優しいから大丈夫だろう」みたいに思うのもヤバいです。繊細で優しいという自己認識のあるタイプだってヨユーで他者を傷つけます。本作だと七森が好例です。
 七森タイプは、傷つきやすく暴力をキャッチしやすいため、「自分は被害者、暴力に満ちた世界大嫌い」となりやすく、被害者ポジションに陥りやすいです。そうなると無意識的に怒りを溜め込むため、何かのきっかけで内在された攻撃性が嫌っている外界に向くことがあります。このタイプは自身の暴力性を認められないことが多く、無自覚に暴力振るってくることも珍しくありません。麦戸は自分に向く人だから対外的には無害ですが(その代わりひきこもる)、七森は割と外に向くので実は攻撃的です。特に顕著なのは白城に対する態度です。
 白城は一見派手で強気ですが、七森や麦戸と同じ繊細で傷つきやすいタイプです。だからぬいサーに居るわけですし。白城は傷つきから守るために、反動的な態度を取ってます。セクハラを容認する別サークルに所属して、「世間はそういうものだから」と諦めた風の態度を取り続けるように、彼女は突っ張ったやり方で生きてきた人だと思います。つまり、彼女の本音は逆で、無意識的にはこの生き方はウソなので無理があると感じてる可能性は非常に高いです(無意識だから気づいていないけど)。
 そして、繊細軍団はそれをキャッチします。繊細だから。そして、七森はそんな白城に対して「そんなやり方だと、白城は嫌なものになっちゃうよ」みたいなことをヌカすのです。

 実際、七森の指摘は正しいと思います。白城はいずれ行き詰まる可能性は高いし、気づかないままに自分自身を傷つけているとも言えます。しかし、今それを本人の前で言うか?そう生きざるを得ず、ここまで頑張って生きてきた白城の誇りもあるでしょうが。白城が七森を攻撃して潰しにかかってきての反撃ならばまだしも、この言い方は無い。このシーンを観て、「でた〜!繊細野郎の暴力性!」としみじみ感じました。俺も七森タイプに結構やられてきてるのでね。

 まぁ、その後七森は自身の傷つき体験などを経て、麦戸と語り合うことで、ちゃんと自分自身の暴力性を振り返ることができてたのはすごいと思いました。麦戸は麦戸で自身の暴力性に気づいてショックを受けており、こうしてシェアできたことは2人にとって本当に有意義だったと思います。このシーンは、本作の2大テーマである、話すことと無意識の暴力性が見事に描かれており、ひとつの形に結実した素晴らしいクライマックスだと感じています。

 優しさは厳しさを内包しなければ嘘になります。単なる甘やかしでしかない。ぬいサーの人たちは、ぬいサーという避難所でぬいぐるみを通じて自身と向かい合いっているパターンがありそうで、あんまり甘やかしているようには見えませんでした。ラストシーンも、麦戸や七森がほんとうの意味で優しくなったことが示唆されているように思えます。


 七森と麦戸は成長しますが、白城は成長しませんでした。最後まで白城は向かい合わない選択をして生きます。これはこれで彼女の生き方であり、優しさへのオルタナティブな価値を提示しているように思います。正直、痛々しいですが、白城はこの生き方への強い自負のようなものもあり、白城のキャラはなかなか複雑で味わいがありました。彼女がいたからリアリティが生まれ、映画が締まったと思います。
 
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