まぬままおま

JOURNEYのまぬままおまのレビュー・感想・評価

JOURNEY(2023年製作の映画)
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「意識」を主題にすることは現代的に意義がある。哲学で「意識」を主題に扱い、近年注目されているのはアンリ・ベルクソンでありーただ当たり前に意識は常に学問において問われているー、ベルクソンを引用しているのは濱口竜介監督なのである。それは濱口監督が学部生の時に書いた論文「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」で、ジル・ドゥルーズの著作『シネマ1 運動イメージ』『シネマ2 時間イメージ』を参考文献にしていたり、脚注でアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』に言及していることから明らかである。

つまり現在、映画で哲学的思考をするためには「意識」が重要であり、「意識」が意識されなければ映画の「概念は創造されない」。


以下、ネタバレを含みます。


本作は主人公の慶次が意識へと旅する物語である。そう言っても旅はさまざまな方向に向いており、慶次が意識化した父に対してでもあり、慶次が非優性児の息子に対してでもあり、老いた慶次がかつての慶次へとそして慶次が意識化する旅でもある。

ではこの旅は何なのだろうか。よく分からないのである。観客が旅する物語としての映画を娯楽的にみるのであれば、主人公が旅を通して他者と出会い、出来事を通じて変化をすることや旅する場所のスペクタル性を楽しむのが常である。しかし慶次が父や息子と対面することはないし、旅を通して父や息子またはパートナーの静との関係の変化があるわけでもない。地球外のイメージが導入されたり、第1部の植物園、第2部の「宇宙船」や「工場」、第3部の自然豊かで壮大な山と湖などスペクタル性は十分にある。しかしそれらは旅する場所ではなく、現に彼らが存在している場所であり、そこで展開される劇にカタルシスがあるかと言えばそうでもない。

だから観客が呆然とするのも分からなくはない。何をみせられ、楽しめばいいのか分からないと。

しかし本作はやはり意識へと旅する物語なのである。そしてその旅は時間を巡る旅でもあり、意識と時間とは何かの哲学的な問いに私たちを旅させるのである。

不思議に思うことは、第1部で慶次と静が車に乗っているシーンである。そこに映される多摩ナンバー。それによって本作の時代設定が近未来なのか現代なのかよく分からなくなるし、端的に物語の時間が破綻している。それは制作と予算の問題だと察することはできるのだが、肯定的に捉えれば二つの時間が存在していることになる。それは「物語の時間」と「多摩ナンバーが存在する現実の時間」である。この二つの時間が映画によって共時的に存在している。それはよく考えれば不思議なことであり、映画の芸術性でもある。そして「物語の時間」とは何なのだろうか。私たちは車に乗っているシーンをリテラルにみれば、私たちの生きている時間と同じ数直線的な時間を感じることができる。しかしシーンを構成するカットは順番に撮られているわけではない。撮られたカットは編集の時間に再配置されシーンとして数直線的な時間を再構成しているに過ぎない。そのように考えれば「物語の時間」も「現実の時間」を拝借しながら、複数の時間が共時的に存在している。つまり主人公たちはSF的に旅をしなくても、車に乗るだけで時間を旅できる。そして私たち観客もそれをみるだけで時間を旅できる。それこそ本作の「旅」であり、「旅」を可能にさせるものこそ意識なのである。

意識は瞬間として映し出されるイメージに時間を見出し物語を生成する。カットであっても所詮コマを一連の時間に集約したものに過ぎないのだから。本作冒頭でフィルムのコマのようにイメージを瞬間的に提示するのはその暗示である。では意識が物語を生成し、「旅」を可能にするものであるならば、意識化とは何なのだろうか。

意識化では自他が融解して永遠の生を生きられるという。永遠の生は死なない。つまり老いることもないだろうし、他者が生まれることもない。他者はそもそも存在しない。なぜなら自他の区分はなく、〈私〉があなたであなたが〈私〉なのだから。時間について言えば、かつて〈私〉が生きた時間とあなたや第三者の「彼」が生きた時間が共時的に存在する。それを幸せなことだとユートピア的に描くのが本作だと思うのだが、私は残酷だと思う。〈私〉の意識は存在しない。あるのは自他の区分がない意識。意識それ自体は時間を見出し物語を生成するのだろうか。物語ははじめとおわりがあるから物語なり得る。永遠の生には無限の共時的な瞬間しかないから、そこに物語はない。そして永遠≒高速だからこそ時間は止まり、「死ぬ」。そうとしか思えない。

このような反物語的構造が本作にはある。旅は旅それ自体として存在し、結末は存在しない。物語としてもよく分からない。物語の残滓はあるのだが、意識化によって慶次が父を探すことは、慶次が父であり、父が慶次であり、従って両者は意識化の名の下で存在しないのだから成立しない。湖への回帰といった描写は、海や水などの自然に女性性を表象させ、登場人物たちーそれも総じて男性であるーを胎内回帰させているとしかみえない。それはキューブリックの『2001年宇宙の旅』のオマージュのように思えるがーニーチェの超人としての胎児回帰ー、SFにおけるジェンダー表象の刷新にはなってないように思う。むしろ退化である。

すでに意識化している者がいる。それは映画におけるイメージとして現前する彼らである。肉体から解放された彼ら。イメージにおいて自他の区分は融解され、瞬間の点滅によってのみ存在している。彼らは永遠の生を生きられる。カメラ=意識が彼らを記録する。意識化した者をカメラ=意識が撮りイメージがスクリーンに投影される。私たち観賞者はみることを通して意識する。意識の戯れ。とても幸せだ。ハレルヤハレルヤ。

私は伊藤計劃の『ハーモニー』を読む立場でありたい。私たちや社会を調和するー本作で言うところの意識化だと思うーために〈私〉=意識を消滅させるのではなく、〈私〉という読み手がそれでも存在したい/するべきだとする立場に。私は映画をみたい。当たり前だが永遠に映画はみられない。しかしむしろ永遠に見られないから映画は存在し、物語としての時間が作動する。「旅」ができる。

だから本作が物語として意識化という永遠の旅に向かうとしても、映画を存立させる意識と時間を巡る旅になっているのであれば、ひとつの映画論や「概念の創造」の手立てとして一見の価値はあるように思える。