フィクションと現実の区別がつかない人が増え、カルト映画を「作りっぱなし」では許されなくなっている。「フュリオサ」や「マトリックス レザレクションズ」と同じ志だった。
卑近な男としてのアーサー・フレックと、勝手なジョーカー像を押し付ける群衆、それに飲み込まれるやはり愚かな男アーサー、という構造は前作の時点で十分描いていたはずだが、前作公開後、世界には「ジョーカーは俺だ」という感想があふれ、模倣犯を生み、映画が揶揄した状況が現実になってしまう、皮肉な事態を引き起こした。
カルト的な人気を博し、犯罪を誘発した「ジョーカー的」過去の名作と比べてみると、例えばタクシードライバーやファイトクラブとの主人公像の違いは、時代の変化を現していて興味深い。
タクシードライバーはベトナム帰還兵、ファイトクラブは現実に生きながら、別の顔を持つ男が主人公だった。ジョーカーはトラヴィスが現実に実態を持てなくなり、アメコミに現れた存在。現実への虚構の流入は70年代、90年代の作品と比べて明らかに強まっている。
今作はアーサーの虚像と実像のズレを扱い直す。影に歌わされ、一体化するアニメーションはシルヴァン・ショメ制作だそう。裁判で多重人格を主張すれば無罪の可能性もあったが、アーサーは実像を受け入れずに妄想へ逃げ込む。リー(ガガ)を含む彼のファンはアーサーの存在を認めない。
(ファンの空虚さを「20回見た!」と数字を盛ることで表現していたのは笑った。己の童貞性を突き付けられるホアキン、ボーは恐れていると同じ役柄だった)
予告でもあった、ガラス越しに口紅をつける場面。リーはジョーカーしか求めていないし、アーサーはそれに引っ張られて笑う。序盤の髭剃りの場面でも、口元の血は他人がつけたもの。借り物の姿でしかない。口元の血はラストで回収される。
・前作のある人物を逃す場面で「アーサーって普通の人なんだ」と思った記憶があるが、あのくだりが重要な役割を果たしており、我が意を得たりという感じだった。アーサーはどこまで行っても小さな優しさや善意を捨てきれない男なのだと思う、ラストもわざわざ立ち止まる必要なかったのに、悲しそうな笑顔で他人のジョークを聴く。
・社会から外れた「黄色」をまとっていたアーサーの人格にジョーカーの「赤色」を持ち込んだのはソフィーでは?と前作の感想で書いたが、今回も、ジョーカーの暴力的な妄想はソフィーを前に湧き上がる。彼女がアーサーの劣等感や欲望を刺激している。ちなみにラストシーンは黄色い壁だった。
・恋愛相手への勝手な幻想、という普遍的な要素を入れ、アーサーが虚像と接する契機にしていたのが一工夫あってよかった。リーはアーサーになんの興味もないのに、アーサーが舞い上がっていく姿が見ていてまあ、しんどいこと。
前作は屋外の移動が多く、ニューヨークを背景としたニューシネマ的なロケ撮影の魅力があったが、今作は引用される「バンドワゴン」の如く、人工的な閉鎖空間でのミュージカルなので、絵的な快感は大きく減じている。もう歌わないでくれ、とアーサーに懇願させる終盤、それをリーが見放す展開からも、今作のミュージカルの退屈さはジョーカーファンをガッカリさせる、明らかに狙ったものだろう。これが新たな分断を生まなければいいが。
前作をインセル讃美だと酷評した人を納得させる今作は、結局は誰かの「見たいもの」を演じる前作と同じ精神で作られている。「こんなのはジョーカーじゃない」「つまらない」と批判が殺到する現実を作るところまで、前作の合わせ鏡になる。ラストの展開も前作のアーサーの行動の真逆になっていて、上手い!けど普通だな!と思う。100年後の観客に、この映画が作られた意図はわからないだろう。前作の幻影の中にしか射程がない、息苦しい映画だった。