Jun潤

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥのJun潤のレビュー・感想・評価

4.0
2024.10.12

前作鑑賞作品。
一作目の“衝撃”から5年、ジョーカーが新たな“衝撃”と共に再びスクリーンへ。
前作から今作にかけての“衝撃”の一つ目はやはりハーレイ・クイン役へのレディー・ガガ起用でしたね。
あまり演技のイメージがなかったので、その時点からどのような作品になるか期待値が少しずつ上がってきました。
二つ目は悪い方ですが日本版プロモーションでの山田裕貴ですかね。
個人的に『ジョーカー』は、ゴッサムシティという誰もがジョーカーとなる可能性を孕んだ環境で、精神に障害を持つアーサーがジョーカーになるべくしてなった物語だと思っているので、日本で俳優として生きている人が共感とは……?と違和感モリモリのプロモーションに感じました。
三つ目は本国での評価が賛否両論ということですね。
詳細は見ていないのでどのような点が批判されたり評価が二分したりしているのかが分からないので、良くも悪くもどんな作品なのか期待が高まるというところ。
副題の『フォリ・ア・ドゥ』とは、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する感応精神病、フランス語で「二人狂い」。
情報解禁時にはピンとこないタイトルでしたが予告編を見るとこれ以上にないピッタリな副題ですね。
ぶっちゃけ『ジョーカー』の続編を、というよりホアキン・フェニックスの演技が観たいがための鑑賞です。
『ナポレオン』や『ボーはおそれている』で見せたちょいポチャなビジュからげっそりとして役作りを完璧に仕上げてきたホアキン、そして予告編で最も印象的なガラス越しにグラスゴースマイルをする場面、もはやその場面のために観にきたといっても過言ではない。

マレー・フランクリンの生放送射殺事件から2年。
刑務所にて精神医療を受けているジョーカーことアーサー・フレックは、長い監獄生活で笑いの発作もジョークも出なくなっていた。
アーサーの弁護人は、事件当時彼はジョーカーという別人格に入れ替わって事件を起こしたとして精神鑑定を受けさせていた。
そんな時、アーサーは罪の軽い囚人が収監されている棟でリー・クインゼルという女性と出会う。
急速に惹かれ合っていくアーサーとリー。
二人の妄想が交錯していく中、街中が注目するアーサーの裁判が始まる。

うん、まぁ批判的な意見も理解はできるかなといった感じ。
前作の続編というよりも世界観が地続きなだけの別作品と捉えればまた違うベクトルの“衝撃”を感じ取れる作品だったと思います。
今作はスリラーやクライム・サスペンスというよりもアーサーとリーによるミュージカル・ラブロマンスのように感じました。
そうして観ると薄れていたアーサーの妄想がリーとの出会いにより再燃し、その妄想を二人で共有しながら、共感性の薄い狂った愛情がどんどん深まったいく様子を、歌とダンスを交えながらまざまざと見せつけられる劇薬のような作品。

開幕直後のアニメーションに始まり、アーサーの裁判の争点にもなった、アーサーとジョーカーとの乖離、それがそのまま今作の軸になっていました。
アーサーは元々ジョーカーだったのか、ジョーカーはアーサーに戻っていくのか、その過程を、ホアキンの演技と共に観ていくのが今作を楽しむ一つの見方だと思います。
元々前作の時点でアーサーは計画的にジョーカーとして悪のカリスマとなっていったのではなく、あくまで環境と、彼が持つ精神疾患と、彼の行動を担ぎあげる衆人たちの存在によってジョーカーとなった。
そのオリジンが描かれた前作からの今作でのライジングを期待していた人も少なくなかったのではないでしょうか、ぶっちゃけ僕も途中まではその一人でした。
しかしアーサーは元々ジョーカーでもなんでもなかったのか、それとも時間の経過と共にジョーカーではいられなくなり、周囲の人々によってジョーカーにされていたのではないでしょうか。
だからこそ、自らをジョーカーではないと断じたアーサーの元からリーは姿を消し、そんなアーサーでももはやジョーカーという存在と自分は切っても切れない関係にあったために、アーサーの顔でジョーカーとして衝撃のラストを迎えたのだと思います。
しかしこれでジョーカーは消え去ったのか、リーが、もしくはアーサーを崇拝していた市民の中に、次のジョーカーが生まれる可能性を含んでいる、そんな苦々しい“妄想”をさせる終わり方でした。

もう一つ今作と前作を比べて大きく違っていた点は、前作がゴッサムシティの凄惨な環境の中で生まれるべくして生まれ落ちたジョーカーの姿を描いていたのに対し、今作は刑務所と法廷の閉鎖的な舞台を中心に、アーサーとリーの妄想を展開していたことだったと思います。
やはりこのシリーズのジョーカーはアーサーの人間性だけでは完成せず、ゴッサムシティという環境を含めてジョーカーだったのに、今作ではゴッサムシティの描写がほとんど無かったことで、よりアーサー個人にフィーチャーした作品になっていたとも思いますが、社会全体の話ではなく個人の話としてスケールダウンしたと感じる人もいるかもしれません。
でもそれはそれで、アーサー本人は獄中にいるのに、街の住人たちの中にはジョーカーという存在が色濃く残っている、ヴィランとしてはこれ以上ないほどの誉れというか厄介さというか、たとえ今作にバットマンがいたとしてもジョーカーを倒し切ることはできない、そんなジョーカーのヴィランとしての特異性が描かれていたようにも思います。

ヴィランをよりヴィランたらしめるもの、ジョーカーをよりジョーカーたらしめるもの、それこそ今作で新たに登場したリーの存在と、彼女とアーサーの間にある愛情。
愛情と言うにはあまりにも歪で狂っている、「二人狂い」が否応なくハマってしまう二人の関係性。
リーの存在がアーサーをジョーカーとして増長させ、同時に彼をアーサーとジョーカーの間で悩ませる。
リーがいたからアーサーは再びジョーカーとなり、リーの存在があったからアーサーはジョーカーではなくなった。
二人で狂いながら再びゴッサムシティに混沌と悪の秩序を生み出して欲しかったと僕も思っていましたし、それを期待していたからこそ肩透かしを食らった人もいるかもしれませんが、上でも言った通り別ベクトルで『ジョーカー』の“衝撃”を継承した作品だったと思います。
Jun潤

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