プリオ

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥのプリオのレビュー・感想・評価

4.5
前作「ジョーカー」は心優しき男アーサーが階段を下りながら悪のカリスマ”ジョーカー”へと変貌を遂げる物語だったのに対して、今作「ジョーカーフォリアドゥ」は階段の踊り場にてアーサーとジョーカーどちらが本当の自分なのか葛藤する物語である。

前作「ジョーカー」は社会現象となった。それは良かれ悪かれ、社会に多大な影響を与えてしまったと思う。格差が進む社会で、自分の能力や現状に絶望し、それが故の狂気と暴力は、世界に共感と熱狂の嵐を生んだ。我々はジョーカーに感情移入することで、自分たちが普段抱え込んでいる怒りや悲しみをカタルシスとして昇華したんだと思う。簡単に言うと、映画がガス抜き的作用を果たした。我々は「ジョーカー」という悲劇であり喜劇を味わうことで勇気と元気を貰い現実をまたより良く生きていこうと思えたのだ。

いっぽうで、悪い影響もあった。ジョーカーの魅力は暴動を扇動するような危うさを多分に含んでいたのだ。ジョーカーはそのリアリティ故、虚構が現実に侵入してしまった。無敵な人や弱者男性がジョーカーを”持たざる者”として象徴的に捉えた。自分とジョーカーを同一化することで犯罪に走ったり、己の攻撃性や残虐性並びに犯罪行為を肯定してしまう象徴となってしまった側面は否定できないと思う。

今作「ジョーカーフォリアドゥ」は、アイコニックかつリアリティのあるジョーカーを解体していく映画になっている。社会現象になってしまったジョーカーとジョーカーが社会現象になってしまうそんな世界に対して終止符を打つ作品となっている。つまりジョーカーに熱狂する世界をメタ認知して「ジョーカーとはなんなのか」に焦点を当てている。前作が引き起こしたジョーカー現象を踏まえて、そんな現象を生み出した観客たちにその問いを突きつけてくるのだ。そして我々はその問いを真摯に受け止める必要があるだろう。

フォリアドゥとは、複数人が妄想を共有する集団的妄想のことを指し、別名としては「二人精神病」や「感応精神病」などがある。フランスの家族内で生じた妄想の伝搬事例から名前がついたらしいが、事象成立条件としては発端者が継発者に対して対して力関係が優位な立場にあったり影響力が強いこと、二人とも世間から切り離されたり隔絶した状態であることが上げられるという。大きな特徴として共依存的関係が見られるもので、新興宗教における集団自殺などがこれに当てはまる。

今作におけるフォリアドゥは、ジョーカーとレディーガガ演じる謎の女リーが織りなす妄想世界(ミュージカルシーン)に現れている。リーはジョーカーに感化された女である。また彼女はジョーカーのことが好きな我々観客のメタファーでもあるだろう。ただ彼女は一筋縄ではいかない。正直リーの心理や思惑などは、最後まではっきりとは描かれていないように思われた。リーは遊び心でアーサーに近づいたようにも見えるし、アーサーをジョーカーに仕立てあげようと心理操作をしてるようにも見えるし、精神科医としての分析対象としてしかジョーカーに興味がなかったかのようにも思えた。

また、ジョーカーがリーに妄想世界を与えたとも見えるが、リーがジョーカーに妄想世界を拡大させたと捉えることもできる。二人は共依存的関係であり、それは社会全体を取り込んでいくわけだが、これはまさに現実世界におけるジョーカー現象とも通じるところだろう。

しかし一方でジョーカーを生み出したのは、この社会であることも忘れてはいけないだろう。アーサーがなぜジョーカーになったのか、それは大きく二つの因子がある。一つは環境因子、もう一つは遺伝因子だ。そしてこの二つは密接に関わっていて、簡単に切り分けることができないグレーゾーンも存在しているだろう。ただ前作「ジョーカー」で強調して描かれていたのは前者の環境因子であると思われる。ジョーカーを生み出したのは、ジョーカーのせいではなく、不寛容で愛のない社会、という見方だ。前作でジョーカーは劣悪な環境が生み出した弱き悲しき殺人鬼として描かれていて、その分同情の余地がたっぷり残されていた。

そういう意味で今作は前作とは大分毛色が異なるものだ。前作の感動を期待している人からすると、受けつけないのも分かる。それが賛否両論を生んでる一要素ではあるだろう。前作のようにアーサーがジョーカーになる過程をどこか悲しく思いながらも、心の中ではもっとやれと思ってしまうギラつく興奮は今作にはない。むしろアーサーがジョーカーになっていくことに躊躇いと気まずさを覚える作品になっているだろう。

今作は裁判映画だ。そしてその争点としては、アーサーが二重人格(解離性障害)か否かである。つまり、アーサーはジョーカーを演じているだけなのか、それとも一つの人格であり病気なのか、というアーサーの精神に迫っていく話になっている。

これはものすごい現実的な話でもある。実際の裁判でも、精神疾患の鑑定結果が死刑になるかならないかの判断材料になったりするだろう。だが今作の物語展開としては、リアルに精神鑑定を描くわけではなく、「アーサーとジョーカーどっちが本当の自分なのか?」という問いにシフトしていく。

そうした理由としては、おそらく二つあると僕は思う。一つは、解離性障害に対して偏見を生む危険性を考慮した結果だろう。病気を掘り下げる映画はたくさんあるが、その多くは病で苦しむ人が生きやすくなるような寛容な世界を作っていくことを基本的主眼としているはずだ。しかし、もし今作でそれをやってしまうと、殺人を肯定してしまうことになりかねない。そんな危惧が製作陣にあったのではと思ったりした。もう一つは、アーサー自身が、自分の過去と現実を受け入れることができなかったというアーサー自身の問題だ。これはアーサーが裁判中に耐えきれなくなり自分の弁護士を解雇するシーンによく現れているが、彼は自分の現状を受け入れる言葉や思考、ユーモアを持ち合わせていなかったのだ。

アーサーには三つの選択肢があった。
1、解離性障害であることを実証する選択肢
アーサーの中には暴力的なジョーカーという別人格がいるという二重人格説のことで、これを実証することで、死刑を免れることができるというものだ。しかし、アーサーは自分と向き合うことができず、この選択肢を放棄してしまう。
※現実的には最も大事にすべき選択である。アーサーは妄想も見てるし、脳の障害もあるし、何かしらの病名がつくものだと素人ながら思う。

2、自分はジョーカーであるという選択肢
これはリーや世間、そして我々観客が求めているものだ。

3、自分はアーサーであるという選択肢
病気ではなく、個人的動機で殺人を犯したというものだ。

この三つの選択を右往左往する彼の姿は、病や障害の話をのぞけば、多くの人に当てはまるものだろう。人は誰しもいくつもの顔(ペルソナ)を使い分けて生活している。友人、恋人、家族、職場、など環境によって自然と顔を使い分けている。そしてたまにどれが本当の自分かわからなくなったりする。結論、どれももあなた自身、というのが答えではあるんだが、それでもSNSで自分をデコることが当たり前になっているこの世の中で、その境界はますます曖昧になっている。いくらでも自分を本来の自分よりよく見せることは可能だし、SNSの情報は何が本当で何が嘘かどんどんわからなくなってきている。今の時代、誰もが本当の自分を見失いやすいし、何を信じていいか分からない。どっちの自分でいたほうが幸せなのか考え出す。自分を偽ってる感じがして気持ち悪いとか、本当の自分はこんなんじゃないとか、悩みがつきない。理想と現実、虚構と現実。その狭間で迷い、苦しみ、もがくのはもはや現代人のスタンダードな悩みになっているようにも思う。

この現象は、決して同じにしてはいけないことだと思うが、アーサーが患っているとされる解離性障害とも通じるところだと感じてしまう。今作がここまで心動かされるのは、病気を抱えたアーサーの物語でありながら、私たちの物語でもあるからだと思うのだ。一言で言うと、アイデンティティの話だ。アーサーは「自分は何者であるのか?」を社会と関わりながら、その答えを探していくのだ。アイデンティティの形成に失敗した人、未完成な人、不安定な人ほど、刺さる話なんじゃないかと思う。

物語におけるテーマもシンプルかつ一言で言えるものだ。
ズバリ、『愛を持つことは大切』というものだろう。
しかし、過剰な愛は、危険である。

少し話は逸れるが、幸せホルモンの一つである”オキシトシン”の話をしたい。別名、愛と絆のホルモンである。いかにも良さげな感じがするだろう。たくさん放出した方が幸せになれるような気がしないだろうか。しかし、オキシトシンは自分たちの絆をなにより重視し、その絆を守るために攻撃的になってしまう側面があるのだ。つまり自分たちの絆あるいは共同体から逸脱する者を許せなくなるときがある。それは時に、愛と正義を掲げ、相手を精神的にも肉体的にも痛めつける行動につながることもあるのだ。

思い返せば、アーサーの周りには攻撃的な人が多かった。きっとアーサーは共同体の結束力を確認するための異物として扱われてきたのだろう。アーサーは障がい者で、力もなく、金もなく、能力もなかった。そしてそんな人たちを排除したり攻撃したりする人間が、残念ながらこの世界にはいる。
でも、だからこそ、愛だ。
それも、ほどほどのオキシトシンの愛。
自分ができることをすればいい。
ただ優しく接することはできるはずである。

ジョーカーもアーサーも、どちらもその人の顔である。
どちらもその人であり、どちらもまとめて受け入れてあげるのも、愛なのかなと思ったりした。





ーーーーーネタバレーーーーー





<起承転結>
起→囚人のアーサーは解離性障害か否か、裁判が始まる
承→アーサーかジョーカーか、狭間で揺れ動く
転→囚人仲間が看守に殺され、アーサーに戻り、罪を告白する
結→ガチジョーカーに殺される

<舞台>
主に三つ
1、アーカム州立病院→アーサー
2、法廷→前半はアーサー、後半はジョーカー
3、ファンタジー→ミュージカルシーン

<オープニング>
オープニングにこの映画の全てが詰まってる。
アーサーという主体があり、ジョーカーという影がある。
ジョーカーはアーサーを衣装棚に閉じ込めて、ジョーカーが表舞台へ出る。
拍手喝采を浴びるジョーカー。
しかし、警官にボコボコにされる。

これはまるっきりこの映画全体を表している。
2時間半ある映画をグッと縮めたショートアニメが冒頭にあるのだ。
このアニメが冒頭にあることで、この映画が何をしたいのかよりはっきり分かるようになっている。とっても親切なのだ。

<印象的なシーン>
・アーサーが看守の背中を軽く叩いたら、思いっきり後頭部を叩き返されるシーン
アーサーはフラットな関係を望むも、看守から絶対的な上下関係を突きつけられるのだ。ものすごい悲しくて、可笑しいシーンだった。

・アーサーとリーのセックスシーン
アーサーの早漏具合といい、悪のカリスマがセックスしている感じといい、もしかしたら笑っていいシーンなのかもしれない。ジョーカーの万能感が崩壊する瞬間でもあった。

・裁判所爆破シーン
唐突だったのでびっくりした。まさに急展開。ここからの展開はヤバい。

・ラスト、アーサーがサイコパスに刺されるシーン
これは、歴史に残るシーンかと。

<ラストシーン>
ラストシーンの衝撃度で言えば、前作を超えるものだった。鑑賞時は受け身を取るので精一杯で、正直結構キツかった。しかし、映画館から帰宅途中、あれ以上のラストはないと確信した。映画はアーサーを散々いじめ抜いて破滅させるものになっているが、不思議と胸糞感は少ないものだ。これしかないラスト、絶妙な爽快感、異様な納得感があった。

解釈の余地が残されたラストで、素晴らしかった。
以下、思いつく解釈だ。
1、アーサーは因果応報にあった。犯した罪の業が自分に返ってきた。いわば製作陣からの「ジョーカーみたいな悪行をしたらこうなるんだよ」というメッセージと受け取ることもできるだろう。悪のカリスマを誕生させた前作に対するアンサー的作品であると同時に、虚構であるジョーカーを奉り崇め盛り上がっていた人間たちへのアンチテーゼ的作品であるとラストで痛感した。

ただ、ジョーカーは消え失せ、愛した女にはフラれ、監獄に戻り、ついには殺されるというアーサーの救いのない生き様には同情してしまうことは否めない。でもその容赦なく完膚なきまでにアーサーを幸せにしなかったことに、製作陣の強い意志を感じた。その背景には無敵の人の出現や世界各地での暴動、治安の悪化への強い警戒心が制作陣にあったのだろう。だからこそ、勝手に自分の中のジョーカー像を作り出したり、ジョーカーと自分を同一化するような人間を、ジョーカー|アーサーごと冷酷に切り捨てた。ジョーカーの死は虚構の崩壊ひいてはジョーカー現象の引き際を意味するものだろう。アーサーは確かに同情すべき点は多分にあるものの、殺人を肯定しない終わり方として捉えた場合、とってもいい結実の仕方だったと思う。

2、最期、アーサーとして死んだ。相手のジョークを聞く時の彼の優しい笑顔が忘れられない。

3、本当のジョーカーは、アーサーではなかった。これはジョーカーの定義によるが、危険で残忍なサイコパス的な殺人鬼をジョーカーだとすると、アーサーはジョーカーではなかったことがわかる。アーサーはあくまで心優しき青年で、それが故に自分を守るために殺人を引き起こしてしまったのだ。

だから周囲の人間に愛があれば、サポート環境があれば、アーサーが殺人を犯すことはなかったように思う。アーサーはサイコパスな殺人鬼ではない。人間の心、他者を思いやる気持ちや感情を持っていた。その事実が、このラストで明確にわかるのだ。アーサーよりはるかにヤバいやつが近くにいたのだ。それはガチモンの殺人鬼でありサイコパス。最後、アーサーを殺した男こそ、本物のジョーカーだと僕は確信した。思えば裁判中掠れ声で無理して威勢を張るアーサーはジョーカーになりえていなかった。いやそれは物語全編を振り返ってみても言えることだ。彼がジョーカーである瞬間などなかった。彼はずっとアーサーだったのだ。

<ジョーカーとは?>
我々が生み出した虚構の存在。
ジョーカーは我々にもある悪の心。
暴力性、狂気性、攻撃性の象徴。
人の影の部分。

<アーサーの居場所>
そのときに帰属する環境によって、人は被害者にも加害者にもなる。アーサーは裁判所ではジョーカーに、アーカム州立病院ではアーサーに戻ったりする。でもその境界は曖昧で、裁判所でもアーサーが、病院でもジョーカーが顔を出す。特にアーサーは時と状況によって自分の顔を使い分けることができないタイプだろう。だからこそ周囲の人間の目についてしまうのだ。服従関係を重視する病院の看守がアーサーを許さない。アーサーを痛めつけるだけでなくアーサーの友人を殺す。その結果、アーサーはアーサーに戻るのだ。

周囲の環境によって顔が変わるアーサーは、私たちと同じだ。アーサーに脳障害があることを除けば、彼はごくごく普通の人だ。優しい人間だ。彼はサイコパスでもければ、悍ましい快楽殺人鬼でもなければ、承認欲求の塊でもなかった。彼はただ一人リーに愛されたくてジョーカーになった。それだけだった。

クライマックス、アーサーはジョーカーのメイクをした男に救われ車で逃走を図る。しかし、彼らの自分に対する熱狂、そして社会に対する非倫理的で攻撃的な姿勢を感じ取り、慌てて車から降りるのだ。彼は崇められたり熱狂されることを特に望んでいなかったのだ。

極端かつ簡単に言えば、アーサーは熱狂されるか、暴行されるかだった。誰もフラットに彼を見る者はいなかった。でも彼はあるがままの自分を見てくれて、フラットに接してくれる人を何より求めていたんだと思う。ただ、きっとそれだけでよかったのだ。

リー然り周囲の人間は、ありのままのアーサーを見ようとはしなかった。彼の笑顔の裏の悲しみや苦しみには目を向けなかった。彼の笑い方を気持ち悪いと吐き捨て殴りつける者、ジョーカーとして調子に乗ってるから痛めつける者、ジョーカーではなくなったアーサーから無惨にも立ち去る者……。誰もありのままの彼を肯定もしなければ、受け入れもしなかった。

彼に残された居場所は、自分だけだ。自分で自分を救うしかなかった。

でも、それさえできなくなったとき、人は狂気に走ってしまうのだろう。

<雑記>
・監督の振れ幅
「映画というものは、社会や、あるいは文化の中の瞬間における私たちの状況を映しだす傾向があります」
ートッド・フィリップス

トッド・フィリップス監督はハリウッドの代表的なコメディ映画の一つである「ハングオーバー」を生み出した監督だが、彼が悲哀的なサイコスリラーを撮るとこうなるんだと感心した。監督のコメディセンスが全く違うジャンルでも活きたことの証明的作品である今作を見ると、コメディとホラーは表裏一体であることもよくわかる。

・前作「ジョーカー」の凄さ
大作スーパーヒーロー映画の制作費の三分の一で全世界10億ドルを売り上げ、当時R指定映画としては歴代一位を叩き出した。各映画賞も受賞し、その芸術性の高さも評価された。ホアキンフェニックスは三度目の正直でアカデミー賞受賞を果たした。また全世界に良かれ悪かれジョーカー現象を巻き起こし、その影響は今日も続いていると言える。

・「言葉とユーモア」という超重要ツール
アーサーには脳障害があるし、おそらくまともな教育も受けていなし、ずっと閉鎖的な環境で過ごしてきた人間だ。そんな過酷な環境で生きる人は、幸運なことに現代の日本では少数だと思う。ただ、言葉やユーモアを持っていないという点だけ抜き取れば、アーサーだけでなく、それはマジョリティである我々にも通じるものだろう。

言葉やユーモアで対処できず、現実を受け入れることができないときがある。そういったとき、人は現実に耐えきれず、暴力という形をとってしまうことがある。それは自分に向かうことも、他者に向かうこともあるだろう。でも逆に言えば、言葉やユーモアを持っていれば、現実を受け入れたり、乗り切ったり、避けたりすることができるのだ。言葉やユーモアは思考を転換させることができる。現実を変えることができる最強のツールなのである。

・ミュージカルである意義
アーサーという男の心理を、前作は妄想で描いたが、今作はミュージカルで描いている。前作は妄想と現実があやふやな映画だったが、今作はその境界がわかりやすくなっている。

「アーサーの中には常に音楽が存在している」と監督が言っている。アーサーは言葉を持っておらず、自己表現が苦手である。でも、そんな彼には、その代わりに音楽が流れていたのだ。

音楽には、辛い現実を乗り切らせてくれる側面がある。元々、ロックやR&B、HIPHOPなど数多くの音楽が黒人奴隷としてアメリカにやってきたアフリカン・アメリカンによるゴスペルやブルースからの派生である。辛い現実を乗り切るためには神を信じるより悪魔を信じざる得なかった彼らが生み出した音楽は、今も脈々と受け継がれているのだ。

アイスランドの先鋭的な音楽家ヒルディの音楽も相変わらず胸に響く。チェロの旋律が今作も染み渡った。ホアキンフェニックスも「私がジョーカーのキャラクターを見つけたのは、撮影現場で彼女の音楽を聴いたときでした」と語っており、音楽が思考、感情、役に与える影響力を思い知るところだ。

今作では、歌うという行為が技術からくるものではなく、感情からくるものであることを重視していて、歌の録音は現場で行ったという。だからいい意味で、ミュージカルなんだけど、ミュージカルぽくなかった。



<追記>
・調子に乗っていたアーサーは、マーレーを殺した時と同じように、殺されることになる。ジョーカー連鎖は続いていく。

・旧劇場版エヴァの説教感

・犯罪行為を助長する側面が問題になるが、映画を誤読あるいは曲解してしまう人が悪い。映画に責任はない。個人の問題。
プリオ

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