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全身小説家の小のレビュー・感想・評価

全身小説家(1994年製作の映画)
4.1
渋谷アップリンクの特集上映「挑発するアクション・ドキュメンタリー 原一男」にて鑑賞。作家・井上光晴のドキュメンタリー。井上がS字結腸癌を発症し死に至るまでの5年間の格闘を生々しい映像とともに追っているけれど、これは副次的なテーマ。メインは自らの人生を虚構、つまりフィクションとして生きた人の物語。

フィクション(物語)の役割とは何か。いろいろあるだろうけれど、現実で受け入れがたい困難にぶつかったとき、それを何とか受け入れていくための役割というのが重要なもののひとつだろう。最も根源的なフィクションは神話であり、聖書である。神話を持たない民族はない(多分)。人は自分の存在を確認し、生きていくために、フィクションが必要なのだ。

小説家は想像力をフルに働かせて、読者の心に響くようなフィクションを作り上げるのが仕事である。しかし、井上は自身がフィクションそのものだった。井上が発言や作品を通じて語る彼の履歴、体験は嘘だった。それはいかにも小説的で感動を呼ぶような嘘なのだ。

トークイベントで原一男監督から聞いたところによると、井上は「自分を貶める嘘はついても良い」と話していたという。確かに学歴詐称などを考えると、自らが有利になる嘘は非難を浴びても、不利になる嘘は笑い話で済むかもしれない。

そして井上は「実は嘘でした」ということは決して言わない。嘘はついたらつき通すのがポリシー。井上の嘘は人をダマそうとしているのではない。“井上光晴”というフィクションを形作るためのエピソードなのだ。

井上はとにかくモテる。映画では「声はいいなあ」と思うけれど、何でこんなにモテまくるのかわからないくらいモテる。そして男にも好かれているようなのだ。理由はよくわからないけれど、井上自身が他の人のことが好きで、サービス精神がとても旺盛ということが関係しているのかもしれない。

井上ははじめから自らの人生をフィクションにしようと考えて嘘をついたのではないだろう。人を笑顔にするよう、人がそうあって欲しいと思っているだろうことにあわせて、嘘をついたのだろうと思う。それが積み重なって“井上光晴”が出来上がっていったのだろう。

せっかく喜んでくれる人がいるのに、種明かしをするなんてヤボというもの。だから、ついた嘘はつき通す。それで迷惑がかからないのなら、嘘をばらしてガッカリさせるほうが意地悪というもの。

原監督によれば、井上の生まれ故郷で取材すると告げた監督に対し井上は「それは良いですね。ただし井上光晴の名前は出さないでください」と言ったそうだけれど、それは恥をかかないようにするためではなく、“井上光晴”というフィクションを守りたかったのだと思いたい。

癌が発覚してからドキュメンタリー撮影の依頼があり快諾した井上に、運命的なものを感じずにはいられない。フィクションの井上をリアリティーを追求するドキュメンタリーのカメラが追う。ドキュメンタリーにフィクションが必要なように、フィクションにはリアリティーが必要である。

自らが自身の嘘を告白することのなかったこのドキュメンタリーによって、自身がフィクションであるという人間の物語にリアリティーが高まり、フィクション“井上光晴”は作品として完成した。観客は小説を読むようにしてこういう生き方もあるのだと知り、人生の荒波への備えをひとつ蓄えることができるのだろう。

●物語(50%×4.0):2.00
・「ジャッキー」と隠語で呼ばれる方が真の主役との声も。こちらの方もなかなかのタヌキながら、原監督のプロデュース手法はお気に召さないという説が…。もう完成しているからかもね。

●演技、演出(30%×4.5):1.35
・井上光晴の虚構の風景を再現するモノクロのイメージシーンがあるけれど、ここに原監督の仕掛けた嘘が2つあります。「ここをわかってくれないと~」とのことなので、映画を観て気になった方は原監督に劇場で直接聞けば確実に、ツイッター聞けば高確率で教えてくれるのではないかと。

●画、音、音楽(20%×3.5):0.70
・「タブーこそ」な映像あり。
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