shibamike

全身小説家のshibamikeのネタバレレビュー・内容・結末

全身小説家(1994年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

157分と割と長尺の本作(Filmarksでは137分となっている、何故!)。
久しぶりに映画を観るのが退屈で苦痛な映画だった。
やっと上映が終わった、とホッとしたら原一男監督とアーロン・ジェローという日本映画研究家の方のトークショーが始まったのだが、「トークショーは1時間です」とアナウンスを聞いた瞬間、自分の尻は四方八方に破裂してしまうと危惧した。とにかくゲンナリした。

が!トークショーのトークを聞く内に本作の意図するところや小説家 井上光晴という男がいかに虚構に徹底していたか、などを垣間見ることができ、「この映画が退屈なのではなく、自分の鑑賞眼の未熟さ故か!ぐぎぎ。」と下唇を噛みしめながら劇場を後にした。

映画の内容は、小説家 井上光晴(自分は知らなかった)の晩年を追ったドキュメンタリー。

この井上光晴であるが、嘘八百ばかりの嘘つき野郎。「生まれは満州、父が蒸発したので中学へ進学できなかった、初恋の相手は朝鮮人で女郎部屋で働いていた」などなど聞き手のこちらが一瞬「へぇ」と興味を持つような話をするのであるが、全部嘘、と映画で明かされる。

「正直こそ正義」と信じて疑わない自分にはこのおっさんが理解できなかった。
が、どうもトークショーの話なんかを聞いたところ、このおっさんは「小説家 井上光晴というキャラを作るために嘘をついているのではなく、自身の人生そのものを虚構(フィクション)としてまっとうするために、そういった作り話をしている」といったような話があり、ショック。

劇場の特別プレゼントで原一男監督の本作製作録の本を貰ったのだが、帯に書いてある井上光晴の言葉↓にまたショック。
「フィクション(虚構)の本質をひと口でいうと、現実よりも激しい物語を作ることなんですね。事実より強い嘘を吐けるかどうか。たちまちばれる作り話とか、見え透いた嘘が嘘であって、墓場まで持って行く嘘は嘘じゃない。それが小説の何よりの要素になる」

"事実より強い嘘"。鋭い鈍器のような矛盾があるようなのに、自分はこの言葉に面食らった。ここまで考え突き詰めている人なのかと、見直した。やるじゃん、光彦。あ、光晴。

あと、光晴の話で勉強になったのは「人間は例えば自分の物語を作ろうとするとき、自分の都合の良い過去を適当に抽出して作りがちだ。自分にとって都合の悪い過去は隠す(恥ずかしいから)。一見、過去の事実しか述べていないようでも、これもフィクションである。」というような話。もうそうなってくると何もかもフィクションじゃん。

映画には光晴を慕うレディが結構な人数(4,5人)出てきて、いかに光晴が魅力的かということをメスの顔で語るのであるが、こちらがちっとも羨ましくならないレディ達だったので、自分の心は穏やかな凪。これが丸の内OLや姉キャンモデルみたいな美女ばかりであれば、「冗談じゃないよ!」と自分は嫉妬の業火で焼身自殺していたかも知れない。

この映画の見所として、"瀬戸内寂聴"の登場がある。寂聴と光晴は親交があるらしく、お互いに病院へお見舞いに行ったりするシーンが見られる。
光晴がガンで亡くなり、光晴のお葬式が流れ、寂聴の弔辞でこの映画は終わる。
かなりの数の参列者が訪れている立派なお葬式で、寂聴の弔辞は結構踏み込んだ内容。
「男と女の間にセックス無しの友情はあり得ない、と考えていた私でしたが(普通、逆じゃないの?)、あなたと私の間の友情はセックス無しの稀有な友情でした。」みたいなことを本当に言っており驚き。今、言う必要ある?

で、で、で!
自分はこのシーンに関してのトークショーの話で目玉が飛び出しそうになった。原監督がわざわざ声を大にして言った。
「寂聴さんと井上さんは関係大ありですからね。寂聴さんのあの弔辞こそフィクションなんです。」

自分は今まで経験してきたもの、すべて嘘だったのではという気がしてきて、人間不信というか世の中不信。

(あと、オープニングの女装踊りは何だったのか)
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