レインウォッチャー

aftersun/アフターサンのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

aftersun/アフターサン(2022年製作の映画)
4.5
記録、想い出、それに夢。映画はこのどれにも成り得るもので、映画を観るとは他者の視点を借りてこれらに入り込むこと、ともいえる。

そして今作は、驚くことにこれらのすべてが同時に響き合う、まさに映画らしい豊かさに満ちた作品だ。それもごくパーソナルな、掌の上の一葉の写真を眺めるように静かな親密さの中で。
テーマカラーのブルーがグラデーションになって、紫陽花の花びらのようにスクリーンから降る雨粒を拾って輝いている。言語化力ならぬ映像化力が異次元のこの映画の中で、空と水面、現在と過去はかんたんに反転し、わたしたちが抱えた記憶もそっと呼び起こしていく。

11歳を迎えたばかりのソフィ(F・コリオ)が、夏休みを父カラム(P・メスカル)とトルコのリゾートで過ごす。ビデオカメラでお互いを撮影する二人、父娘仲は良好で、申し分のないひと夏のバケーションに見える。
しかしわたしたちは、カラムが抱える心の傷の存在に少しずつ気付いていく。それは、彼がソフィと離れてふと一人になったとき、あるいは夜が陽を退けて覆い被さってきたとき…音もなく近づいて、彼を搦めとるのだ。

その正体が一体何なのか、最後まではっきり明らかになるわけではない。
ただ、カラムが娘の前ではできるだけ楽しいパパであろうと努めながらも、過去の何かに囚われていることは確かだ。うまく外せない手首のギプスや、脱ぐのに難儀するウェットスーツは、その表れであるように見える。

彼は太極拳や瞑想を学んでいて、娘の見えないところで何とか「それ」と戦おうとしている。しかし、自己嫌悪のようなものが付きまとう。ビデオの中で娘が自分を誉める言葉を最後まで聞けず、鏡の自分に唾を吐き、娘がサプライズで歌ってくれた誕生祝いの歌をうまく受け止めれない。

また、序盤から、カラムの表情はなかなか正面を向かない。ソフィが彼を正面から撮ろうとすると、彼はたじろぎ、困惑する。
代わりに何度もこちらに刷り込まれるのは、彼の背中だ。まだ若く逞しいはずの彼の背中は、丸められ、表情を隠し、小さな子供のように頼りなく見え…やがては震えてくずおれる時が来る。

このような、カラムの心象をまるであぶり出しの如く描いていくプロセスは、水彩的な繊細さに満ちていると同時に、時にはホラーの様相すら醸し出す。
明るいリゾートの風景で、序盤から常に傍らに在る不安・不吉の影。奇妙な緊張感が場を支配し、車のクラクションやティースプーンの立てる音にすらびくついてしまうし、宵闇の深さに潜む気配に怯える。

そして、この感覚はソフィと共有されている。彼女もまた、子供ながらにうっすらと父親の異変に気付いているものの(「たまにすごくヘンだよ」)、どう触れていいのかわからない。彼女はまだ、それを名付ける術を知らないからだ。

それに、自分自身もまた子供からティーンエイジャーへの移行という大問題に脅かされていて手一杯、ということもあるだろう。この旅はソフィの変化を追ったものでもあって、真に重層的な作品となっている。

ソフィの視線の先には、常に他のリゾート客がいる。プールサイドでぐずる幼児でも、男の子とこれ見よがしにキスするお姉さんでもない、不確かな自分の揺らぎを感じている。
まさに彼女が遊ぶレーシングゲームのように左右に振れながら、まだ足がつかないプールの底の深さをあらためて思い知りながら、それでもすこしだけ彼女は大きくなる。

それが絵的に示されて思わずハッとするのは、年上グループとの交流を経たある出来事のあと。それまでTシャツ&短パンみたいな服装がメインだった彼女が、ワンピース姿になる。部屋に散らかった父の服を拾って畳む姿は、急激に「女性」だ。

ここを機に、父カラムとの距離感にも少し変化が見られる。それは自然で不可逆なことながら、後のソフィにとっては後悔の種ともなったかもしれない。
カラムが熱心に教えていた護身術を、はじめはうまくできなかったソフィが、終盤のある場面でやって見せる。その一瞬の、振りほどいて離れた手の感覚を、ずっと彼女は忘れられないのではないだろうか。

カラムの視点、ソフィの視点、そして大人になったソフィが思い出を振り返る視点。これらが絡み合い、このひと夏は哀しみと尊さがない交ぜになった万華鏡のように複雑な反射を見せる。

この感覚が凝縮された、まさに映画全般のミニチュア、あるいは要約ともいえる場面がある。
ホテルの室内で、ソフィがカラムを撮っている。そこにはTVにつないだビデオカメラの映像、部屋の鏡に映る像、そしてTV画面のガラスに反射した像、が同時に共存しているのだ。(そして終盤のちょっとした種明かしや、そもそもこの映画を観るわたしたちの視点を加味すると、さらに重なりがあることがわかる)

他にも鏡や水面を使った表現が多用される作品だけれど、この場面は(特に最後まで観たあとに思い返すことで)心から震えが来る。少なくとも構図の面で、これ以上の作品は流石にしばらく出会えないんじゃあなかろうか、と思えるほど。

映像に残した姿はずっと変わらずに消えない、と言われたりするけれど、今作を観た後だと「それは半分うそかも」と思ったりする。
やはり、変わってゆくのだ。時が経ち、観る者も成長して、映った者を見つめるとき、そこには少しずつ変わりゆく表情や感情を発見するだろう。

それは例えば、
空のパラグライダーが、浮いているようにも沈んでいるようにも見えるように。
温泉の泥が、陽に乾いて固くなるように。
ポラロイドで撮られた闇から、姿が浮き出るように。

そして、日焼けの跡(Aftersun)の懐かしい痛みが、やがては消えてしまうように。

ソフィは(そしてわたしたちは)これまでもこれからも、この記録、この想い出、この夢を反芻して父を探し続けるのだろう。
それが必ずしも不幸なことではない、と信じられるのは、ラストがどこか「次の生」を感じさせるものだからだ。ぐるりと繋がる彼方と此方、結末と冒頭。繰り返しの中でいつか折合いをつけて「会える」ときを、祈っている。

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音楽の使い方も見事で、90sヒット中心に散らばる中、重要なのは3曲。
『Tender』『Losing My Religion』、そして『Under Pressure』。どれも大ネタと言えるけれど、その使い方はどれもクリエイティブで、映画の印象的な節目になる。

特に歌詞の多面性が重要だと思うので、『Tender』以外はちゃんと日本語字幕も対応しているところが安心・素敵。