若い男女があっち行ったりこっち行ったりを繰り返す闇夜の路上で、ちかちかと灯りが明滅する瞬間がある。『牯嶺街少年殺人事件』でチャン・チェンが押し入れにこもって裸電球を点けたり消したりするのを思い出した。『牯嶺街』の崩壊の途を示すような苛酷な暗さとは違い、本作は闇にまぎれて安堵するような、そのときはじめて気持ちをあらわにできるような穏やかな暗さに思えた。
ミンという男性が暗闇の中で「何が一体普通なのか」と自問するシーンは『牯嶺街』と地続きの時代を意識させる。冒頭に孔子をひいて示されたように、1990年代急激に発展し豊かになった台湾ではあるが、不穏な歴史をつねに背負っている。
エドワード・ヤンの映画を観てるとメガネ七三もしくは太めメガネで傲慢な役の男性が結構な割合で出てくる気がする。とくに非モテ的な意味が付されてないのがちょっと不思議で、単に文化の違いかもしれないが。本作はモーリー、チチ、フォンという女性たちが皆特徴的で美しく、それに対して男性たちは上記の傾向があり、とくにすらりとしたモデル体型のフォンがメガネ七三とディープキスしてるのはちょっと引いた。完全ルッキズムですみません。しかも男性たちの名前と関係がほとんど一致せずなんとなく観てた。
モーリーの義兄である小説家の仕事場は、小上がりに畳が敷かれ、コンクリートブロックと板で作られた長い座卓があり、四方には本が背を天井に向けて立てられた状態でずらりと並べられている。その部屋がいいなーと思った。
いつもの長回しによりワンシーンワンカットに近いシーンも多く、たびたび黒が挟まれその次のシーンを象徴する言葉が字幕で出てくる。その裁ち切りにより軽さが加わり、人物の行動が点景のようになる。闇と街の灯りのあいだに漂うように見える。
三日目の早朝、高層ビルの窓辺に座るモーリーとチチの姿は逆光で外の白に縁どられるシルエットとなる。