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劇場版 センキョナンデスのOsakaVoyantのレビュー・感想・評価

劇場版 センキョナンデス(2023年製作の映画)
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はじめに言うとかなあかんけど、ワイはYOUTUBEの『ヒルカラナンデス』も初回から全部見てるし、有料配信も購入するくらいには番組のファンやねん。
やから今回の『劇場版センキョナンデス』について書くのも、あくまでファンの目線からの評価になると思う。

ダースレイダーさんとプチ鹿嶋さん、このコンビの良さは、まずもって「アマチュアリズム」と「“ゴキゲンなおじさん”エートス」にあると思うねん。


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「アマチュア」いうたら、「あいつアマチュアやん(=プロではない)」とか否定的なニュアンスで使われることもあるけど、ええところもあるねん。
エドワード・サイードいう人はこんな風に言うてるで。


「アマチュアリズムとは、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点に縛られることなく、憂慮や愛着によって動機づけられる活動のことである。現代の知識人はアマチュアたるべきだ。アマチュアというものは社会の中で思考し憂慮する人間のことである。」(エドワード・サイード『知識人とは何か』)


この言説は「知識人」についてのみならず、ワイらパンピーにとっても、この社会で生きて、考えて、言葉を発する上で、大事な考え方やと思うねん。
利害関係にとらわれた当事者や専門家ではない「アマチュア」による言論、そして政治参加。
その政治参加にはもちろん投票行動も含まれるし、ステークホルダーたちの利害関係や、ドグマティックな党派性の外で考え、発言し、投票すること。
こうした政治参加における「アマチュアリズム」を、ヒルカラナンデスの二人はまさに体現してる思うねん。


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もう一つの美点、「“ゴキゲンなおじさん”エートス」。

ダースさんと鹿島さんは、普段の配信やこの劇場版の中でも、時に少しシリアスになることはあっても、ほとんどプンスカすることないねん。
政治や社会問題を語るにしても常にユーモアを忘れず、あたかもおもしろいエンターテインメントについて語るように、丁々発止の掛け合いでおもしろ可笑しく語りはって、それがめちゃめちゃ楽しいんや。

もちろん真剣な顔で深刻な政治・社会問題について真面目に話すことも大事やけど、「正しさ」を追求する議論は、ともすれば自分と意見の合わない他者を「排除」する方向に行きがちやん。
それはSNSとかでの、自分の正しさを押し付け合うだけの、「議論」と呼べない罵り合いとか見ててもわかるやろ。

それに対してゴキゲンな「楽しさ」とともに語られる言説は、排除ではなく、「包摂」のための言語活動やねん。
自分の価値観を押し付けるのではなく、「こういう考え方や見方もあるよ〜」て、人々に笑いとともに気付きを与えるコミュニケーションや。

日常生活で考えても、しかめっ面で偉そうに説教してくるおっさんの言葉より、朗らかでゴキゲンなおっちゃんの言葉の方が、こっちも聞く気になるやん。
二人の「“ゴキゲンなおじさん”エートス」は、単なるおちゃらけではなくて、重要な政治・社会問題を語り他者に言葉を届けようとする時、実は一番大事な基本姿勢やと思うねん。


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そして何より重要なのは、「アマチュアリズム」と「“ゴキゲンなおじさん”エートス」を体現するヒルカラナンデスの二人が、今の日本の言論界で最もディーセントな「民主主義者 democrat」であることやと思うねん。

もちろん「民主主義者 democrat」いうても党派的な意味じゃなくて、民主主義社会における価値や普遍性を、誰よりも大事にしてるってことやねん。
(民主主義が普遍的制度であるかとか、ややこしい議論は置いとくで。少なくともワイらが暮らす日本社会は、民主主義を前提に制度設計されてるから。)

お二人の根底にあるのは、民主主義社会における制度やコミュニケーション、あるいはコモンセンスや良心への基本的信頼と、それをより良く機能させるための「信念」のようなものやと思う。
やからお二人の言説には、ある時事問題や事象を語りながらも、その背後には、それが民主主義社会にとってどんな意味を持つかの、メタな視点が常にあるねん。


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例えばやけど、個人的にも一番好きな、プチ鹿島さん一流の『森喜朗一代記』。
様々なソースにあたりながら、ファクトベースで森喜朗の豪快さ=デタラメさを語っていくプチさんの語り口、ダースさんの合いの手やツッコミも最高に楽しいんやけど、
同時に、東京五輪みたいな汚職まみれのでかい利害関係の背後で、こんな旧時代的なご老体が未だに絶大な権力を維持しふんぞり返ってるて事実に、視聴者はゲラゲラ笑いながら気付かされるねん。
それが本来「公平」かつ「公正」を掲げるはずの民主主義社会の、正しい姿なのか。

もちろんそうした議論や言説は他にもあるけど、この二人の良いとこは、例えば森喜朗にしても、彼を支持したりありがたがる側の理屈を踏まえた、相対的な視点があることやと思う。
鹿島さんはよく「一塁側」と「三塁側」の話、メディアや言論の相対性の話をよくされるけど、世の中には多種多様な立場や視点があって、自分と反対側にいる人らもまた、同じ「民主主義というゲーム」のプレイヤーやねん。
やから相手の立場や考え方を無視して自分の主張を一方的にまくし立てたとこで、それは民主主義的なコミュニケーションにはならんのや。

そら人それぞれ考え方の違いはあるし、支持する政治家や政党も違うけど、右も左も関係なしに、日本社会において言論や政治的コミュニケーションは、ともに「民主主義者」としてなされなあかんと思うねん。
それは人それぞれの考え方や立場の違い、「差異 deference」を多角的視点で認めながら、それでもなおより良い民主主義社会のためにコミュニケーションを重ねていくことやと思う。


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劇場版の話の前に前置きが長くなってごめんな〜
ファンの立場からのレビューやと、どうしても前提の説明が必要で、好きなものを語ると人は饒舌になってまうねん。

まとめると『ヒルカラナンデス』コンビ、ダースレイダーさんとプチ鹿島さんの良さは、

・利害関係や党派性にとらわれない「アマチュア」の真摯さ

・「“ゴキゲンなおじさん”エートス」の陽気で楽しく、包摂的なコミュニケーション

・ディーセントな「民主主義者」としての、正しい視点と姿勢


世の中見渡したら、右には特定の政治家への熱狂的盲目的追従や、愛国を名乗る差別的言説があり、
左には目的化した政府批判や「ダメな理想主義」があり、
もう片方にはいかにもダメなインターネッツらしい、冷笑主義者の「論破ゲーム」があるやん。

そんな中で『ヒルカラナンデス』は、二人の「話芸」としてゲラゲラ笑いながら、民主主義社会にとって本当に必要なこと、その「エッセンス」を教えてくれる、たいした番組や。
やからこの二人の言葉は、どんな真剣な面で行われる議論よりも言葉が力強く、柔らかで、聡明な響きがするんや。
今の社会にはそういう「言葉」が必要やし、その言葉を発する主である『ヒルカラナンデス』の二人は、同じく「アマチュア」の「民主主義者」であるワイら視聴者にとっても、この社会で生きて考えていく上でのたくさんの気付きを与えてくれる存在やねん。


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で、ようやく今回の劇場版の話。

『ヒルカラナンデス』ていう番組、お二人のことは大好きやけど、これは映画として決して褒められたもんじゃないと思う。
というのも、トーク番組や配信ライブと映画は、メディアとしてまったく別物やと思うし、言うたら映画というメディアにおいて、特定の候補者を描写する(あえて言えば)党派性と暴力性に、作り手はあまりに無自覚やと思うねん。

配信と映画、前者もワイは配信買って見てるけど、元々素材を並列させた散文的な形式やってん。
それを映画にすることで、それぞれの候補者に対する「予断」が、よりキツい形で表出してるんや。

その最たる例が、香川一区の平井候補と小川候補の「描き分け」や。
もちろんワイもワニ大臣はいけ好かんし、小川候補応援するけど、取材者の視点や撮影された素材がどうであれ、この描き分けだと悪意あると思われても仕方ないレベルで、恣意的な「再構成」がされてるように見えるねん。

もちろんドキュメンタリー作品には必ず視点があって、完全な中立的視点・描写てありえないけど、『劇場版 センキョナンデス』は、その予断と恣意性に無自覚すぎると思うねん。
これがOKやとしたら、例えば取材者の視点でもって得られた素材で特定の政治家をケチョンケチョンにけなすドキュメンタリー作品も、倫理的にOKになると思う。
ていうくらい、この作品は「ドキュメンタリー作品」として、視点のバランスを著しく欠いていると思うねん。

(もちろんこう書くと「マイケル・ムーアとか原一男とかどないやねん」て意見もあるけど、思想や党派性を全面に押し出したドキュメンタリーと、『センキョナンデス』は違うと思う。
少なくとも『センキョナンデス』は公平性や中立性をある程度確保しながら、恣意性や予断に無自覚であるという点で、言うたら中途半端に公平で、中途半端に偏ってるねん。
そのアンバランスさは、いかにお二人のこと好きでも批判されるべきやと思うねん)


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ある作品を語る時、たとえば自分とは真逆の立場からしたらどう見えるか、考えてみたらいいと思う。
もしワイがヒルカラナンデス見たことない自民党支持者やったとしたら、この映画観たら「野党候補ばかりを肯定的に描く反政府映画やな〜」て考えると思う。

もちろん、作り手の意図がそこにないことは、ワイも重々承知してるで。
この『センキョナンデス』が描こうとしてるのは、政党や立場に関わらず、候補者それぞれの、人としての言葉や情熱、「エモさ」やてことわかってるから。
特に後半、「闘うリベラル」て何やねんて、立民党内の立場の不一致を批評的に描いてたし、決して野党支持一辺倒じゃないこともわかってるねん。

けども、出来上がった作品のアンバランスさは批判されるべきやと思う。
むろんおもんない選挙報道みたいに「与野党候補を均等に描くべき」とは言わんけど、作品内において作り手の、候補者への「共感」や「思い入れ」が、与野党で明らかにバランス欠いてるねん。
後半特に、「なんでこんな辻元清美ばっか見せられなあかんねん」て、比較的超リベラルなはずのワイですら思ったで。

もちろんこの『センキョナンデス』は「作品」であって「報道」ではないから、別に公正中立である必要はないかもしれん。
けどもそれの何が問題かて、この作りやバランスやと、元からの野党支持者か、政府批判的な志向を持つ人にしか、作品が届かないからやねん。
お二人はいつもの配信でも、例えば政権を擁護する人らの「エコーチェンバー」ノリを批判してるし、
だからこそ逆に『センキョナンデス』本作が、そうしたクローズドでスモールなサークルの「内輪ノリ」になっていないか、批判的に検証されるべきやと思う。


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『センキョナンデス』に関しては、ファンとして観て率直に思ったことを厳しめに書いたけど、もちろん作り手にも反論はあるやろし、「エモい選挙いうものをおもしろく伝える」ていう、草の根の民主主義者としてのお二人の活動、ほんまに尊敬してるで。

しかしながら、この作品もまた、さっきの「一塁側/三塁側」じゃないけど、一つの視点からの選挙戦の観測記録やねん。
劇中鹿島さんが「批判」について語ってるけど、相手に敬意をもって批判すること、そこから生まれるコミュニケーションこそ、民主主義社会にとってはいちばん大事やと思う。

アマチュアのゴキゲンなおじさんたちの、民主主義者としての言論や活動、これからも楽しみにして拝見させていただきます〜〜
OsakaVoyant

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