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我が名はヴェンデッタのkuuのレビュー・感想・評価

我が名はヴェンデッタ(2022年製作の映画)
3.7
『我が名はヴェンデッタ.』
原題 Il mio nome e vendetta.
製作年 2022年。上映時間 90分。
アレッサンドロ・ガスマン主演によるアクション。
元マフィアの男が妻と義兄を殺され、娘とミラノの街に潜伏しながら復讐に挑む。
メガホンを取るのはコジモ・ゴメス。
ジネーヴラ・フランチェスコーニ、レモ・ジローネ、アレッシオ・プラティコのほか、フランチェスコ・ヴィラーノ、ガブリエレ・ファルセッタらが出演する。

北イタリア。
サント(アレッサンドロ・ガスマン)は、アイスホッケーに打ち込む娘のソフィアと妻に囲まれながら平穏な生活を送っていた。
ある時、サントが禁じていたにも関わらず、ソフィアが彼の写真をSNSに投稿してしまう。
サントはマフィア『ンドランゲタ』(イタリアの犯罪組織マフィアのうちカラブリア州、特にレッジョ・ディ・カラブリアを拠点にしているもので、 約150団体(約5,200人)を擁する、コーサ・ノストラ、カモッラ、サクラ・コローナ・ウニータと並ぶイタリア4大マフィアの一つ。)の元メンバーで、写真を見たかつての敵がサントの家を探し当てて乱入し、妻と義兄を殺害する。サントはソフィアを連れてミラノの街に隠れ、親子で殺された家族の復讐を果たすとともに約20年にわたってくすぶっていた敵との因縁を晴らす。

『"殺る"か"殺られるか"。これが掟だ慈悲を示すことは弱さの表れでしかない。忘れたい教訓だ。』―――作中よりサントのセリフ。

今作品では、『96時間』シリーズのあのマニアックな精神をシチリア経由でミラノに運んで、父ちゃんと娘の関係修復をシチリア・マフィアにミックスして出来た感じの作品(説明長っ!)。
サントと幼い娘ソフィアは、兄と妻を惨殺したシシリアンマフィアに復讐するため、逃亡を続けているんやけど、個人的には悪くはないバイオレンスアクションでした。
『キル・ビル』や『ジョン・ウィック』のような様式美はないけど、カメラや照明の細工がよく、家族的な魅力はありました。
今作品は、家族の和解というアメリカの人気モチーフを使ったスリラーで、Netflixは、お人好しから脱却し、自衛本能を発揮するための休日の隠れ家を提供したんかなぁなんて思いました。
スマホの技術が中心的な役割を担っていることを強調した、スマートで血生臭い物語。
顔認識機能によって、生意気な娘ソフィアは、父ちゃんから『絶対に写真を撮んな』って忠告されるも無視。
父ちゃんが見ていない隙に、携帯電話で父親の写真を撮っただけでなく、すぐにソーシャルメディアに投稿しちまう。
父ちゃんを何年も探していたマフィア一家は、そのアップロードを瞬時に察知し(テレメトリーソフトを使用か)、殺し屋を派遣。
こないな感じでアクションは推進します。
この顔認識機能は、サントとマフィアのボス、アンジェロ(レモ・ジローネ)の最終対決に至るまで、全員が全員を追跡することになる。
アクションが得意な娘ソフィアも参加し、父ちゃんと娘の甘い絆とエキサイティングなアクションが楽しめました。
『My name is Vendetta』は、古き良き時代の復讐劇感があり、ユーロトラッシュの世界を舞台にしたスリリングな作品でした。



『"殺る"か"殺られるか"。これが掟だ慈悲を示すことは弱さの表れでしかない。忘れたい教訓だ。』―――作中よりサントのセリフについて徒然に。。。
何か良くわからない文章を長々と並べてますがお時間ありましたらどうぞ🙇。


恩愛/慈愛/慈悲てのは単なる弱さであり、それは自身の生存を狭めてしまう。
ちゅうことかな。
人は状況に応じて、復讐の芽を絶つことが徳であると云う人もいる。
立場によって是ともとれるし、否ともとれる。
たとえば、戦争の場面で兵士がいちいち慈悲を働かせているとすっと、彼が生き残る可能性はまずない。
また、仲間の命を危険にさらすに違いない。
慈悲を働かせても決して死なないような超絶無敵不老長寿メタヒューマンやと話は別やけど。
(実際、復讐系映画にはメタヒューマンは登場するが)
彼らは復讐される危険がないさかい慈悲を働かせることができるんちゃうかな。
しかし、そのようなメタヒューマンにとって慈悲は何のためにあるんやろ?
殺ってもエエし、殺らなくてもエエ。
そないなメタヒューマンにとって、慈悲は、単なる気まぐれでしかないんちゃうかな。
まぁそないな所を描いた作品も最近は生まれてる。
強者にとって慈悲は気まぐれでしかなく、復讐を恐れる弱者にとって慈悲は弱さであって、徳ではありえない。
なら、慈悲ってどないして徳となったんやろか?
殺される立場になりやすい人間が必要とするものだろう。
それは、慈悲を掛けてもらわな生き残る可能性があらへん人間。
そないな弱者が慈悲を求める。
そして、彼らにとって、慈悲は生存の可能性を確実に高める。
慈悲は、それを受ける者たちにとってのみ徳でありうるんじゃないかな。
それを施すものにとっては徳ではありえないのかな。
慈悲を求める者たちは反論する。
慈悲があれば、互いに生き残ることができると。互いを赦しあわなきゃ、我々はいつまでも復讐の輪を抜け出せることができないと。
しかし、それは本当なんかな。
慈悲を受けたものは復讐をしないんやろか。
復讐の可能性が担保されている社会においては、このことは成り立たへん。
今作品の主人公が、昔在籍してた裏社会において、慈悲はほとんど意味をなさない。
殺す勇気を持つ者が徳あるものであり、慈悲のような一般道徳的な徳は徳ではない。
慈悲深い人間などは、称賛されず模範ともされず、死にゆくのみ。
それはどんな意味でも慈悲ではない。
なら、我々の社会ではどうか。
まず、我々の社会ってか、回りに慈悲深い人が居ったとしたら、そもそも争いの場面に巻き込まれないと想定されているように思われる。
慈悲の徳をもった人てのは相手を殺すとかそのような場面には巻き込まれない。
例えば、徳のある人が突然、フルボッコされたとする。
彼はどうするやろ?
彼は殴り返さないやろなぁ。
彼は慈悲深いのであり、他者を赦すことができる。
こないに考えると、表社会における慈悲てのは復讐しない性向やと云える。
赦してのは、復讐をしないことやと。
こないして考えてみっと、裏社会と表社会で、慈悲の意味がかなり違うことがわかる。
裏社会において、慈悲てのは、他者を殺せる場面で殺らずに、結果、他者の復讐を許しち弱さを意味する。
しかし、表の社会やと、他者に対して復讐を思いとどまることが慈悲やと云える。
ここで、表社会で慈悲深い人間は、裏社会で慈悲深い人間のもとでのみ生存できるし、裏社会で慈悲深い人間てのは、表社会で慈悲深い人間のもとで生存できる。
このように、慈悲てのは、それが一貫されるとき、二つの社会をとおして、生存を高める。
我々の自然状態が裏社会のような社会であるとして、慈悲深い強者と慈悲深い弱者が出会うことで、慈悲は徳やと認識される。
そのように慈悲が徳として確立されると、復讐はルール違反やということになり、復讐の可能性も減ってゆく(はず)。
んで、裏社会から表社会への転換が起きる。
表社会においては、慈悲がほんらい持っていた弱さは失われ、それは、復讐ちゅうルール違反を押しとどめる強さであると解されるようになる。
慈悲が弱さであるという端的な事実は、裏社会のような例外的状況においてのみ認識されるようになる。
問題は裏社会(自然状態)において慈悲が確立される過程。
慈悲深い強者と弱者はいかに出会うことができるんやろ。
彼らを慈悲へと動機づけるものは何んやろか。
慈悲深い弱者が先立つことはありえない。
慈悲が徳として確立されなければ、強者はふつうに弱者を殺るやろう。
弱者が慈悲深くふるまう可能性などありえない。で、あるなら、慈悲深い強者が先立たなければならない。
強者はある日、弱者を赦しちまう。
殺すのが面倒になったのかもしれないし、赦しを願う弱者が哀れになったのかもしれない。
いや、後者の可能性はないんやないか。
赦しがないところで、弱者が赦しの可能性を期待することはありえないし、強者が哀れに思うこともありえないやろう。
いずれにせよ、ある日、強者が弱者を赦してしまう。
すべてはここから始まる。
赦された弱者はいたく感動する。
奇跡が起きたのである。
まさに神が介入したとしか思えない事態。
このような奇跡は、弱者のあいだで、強者の新たな徳として理解される。
強者はこのようにもふるまうことができる。
我々も同じようにふるまってみたい。
かくして、赦された弱者のほうも慈悲深く復讐を押しとどめる。
そして、慈悲深く平和な社会が訪れる。
と考えてみると、やはりはじめに行為ありきやと思われる。
徳が成立するには、はじめに、その徳のコード、あるいは繁栄可能性に従うのではない行為が必要になる。
まったく気まぐれな行為が起き、その後その行為に現れた性向が徳として定着してゆく。
慈悲について云やぁ、そないな定着が起きない限り、慈悲が徳になることはありえない。
つまり、復讐が自然的事実であるとすれば、慈悲が生存を高めるちゅう奇跡が定着しない限り、それが徳であるなんてことは絶対に理解されえない。
と考えてみると、現在の裏社会はまったく変な社会やと思える。
慈悲は事実として生存を高める性向であるのに、それが成立しないからや。
慈悲が徳となるプロセスを経て、慈悲が徳ならない社会を構成している裏社会は、不自然な退行と云える。
そのような例外的状況を指さしながら、ほら、あれがヴィシス(物質的自然という見方が生まれる前の、初期ギリシアの哲学者が思索した自然をいう。 生命の源と考えられ、万物はそこから生まれ、そこへ没する)なんやちゅうことに、現時点では根拠はないって思っちまう。
何らかのノモス(社会概念、法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範)が成立するとき、そこには何らかのピュシスが働いている。
その事実を観ないで、単に反ノモスな病的状況をピュシスだと考えるのは、歪んだ現実逃避でしかない。
弱者だけで道徳を創造することなんてことは不可能やし、道徳の創造は、必ず、強者の行為を起点としていると。
慈悲は弱さだと云うのは、よくよく考えると道徳がなんらか不自然なものだとして、反道徳が自然であることにはならないかなぁと現時点では思うかな。


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