ニューランド

WALK UPのニューランドのレビュー・感想・評価

WALK UP(2022年製作の映画)
3.6
✔️【ホン・サンス特集より】🔸①『WALK UP』(3.6)🔸②『小説家の映画』(4.4)🔸③『映画館の恋』(4.4)🔸④『あなた自身とあなたのこと』(4.6)【ピアラ特集より】🔸『ルル』(3.6)▶️▶️ 

 ホン・サンスは初期はかなり重く泥臭く、そのくせ映画的キレも大事にし、映画的な範疇にあって手応えも見事だった印象がある。しかし、ゼロ年代半ばから軽妙洒脱浮遊感が増したばかりか、これって映画?の芯や核のない作風に移って来たのに気づく。
 ヌーヴェル・ヴァーグ派より後発、荒々しく無軌道自己中と見えて、派の多くより年長、作風も実は大戦前後の真の映画的確度を手離さないピアラと対照的である。
 そんなホンがまた大きく観る者らを裏切ることこそが本意なのか、極めて映画の正統に寄り添った端正作風に戻ったのが2年前の近作①か、と一旦戸惑う。
 ①は、階段上や屋上庭園での仰俯瞰めや横ズラし対応らの端正的確構図確度と軽いパンらが包む中、珍しくズームを封印してて、固定に近い室内での会話の長まわしメイン描写が、アッケルマン代表作らを明らかに上回る厳格と正確のワンシーン=ワンカット維持を感じさせる。併せて、1階から4階までの各部屋移行と1年ずつ位か時間と状況のリンク退歩のマッチングのスマート構成、只何時しか移行で区切りはハッキリしない。ラストだけ最初シーケンスの中断してたのへの戻り、或いは掴めなさ感覚の不可思議、という鮮やかさか落ち着きに感心もする。名画が一杯の頃の映画全盛時へのさりげない戻りみたいだ。1編の映画として嘗てなく見事で、妙な手法を切り捨ててる。
 女をつくり妻子のうちを出て十年、久方の娘の就職斡旋で、旧知の女性インテリアデザイナーを訪ねる、かなり高名な映画監督。専攻の美術では食えぬと、弱気を改め人とも接したく、その職の弟子にとの、娘意向。しかし思いの外ズケズケと、ここで働くジュールなる青年のアドバイスも超え、独立感性主体を説く師になる人に打ち解け「裏切りはしない」と過分にアッピール。この建物はデザイナーの会社組織運営で、一階が食事処、B1がデザイナーの作業場、2階が料理教室、3階が賃貸へや、4階が画家アトリエとなってる。1年後、娘は既に辞めてて済州島の友の所に行ってて、監督は、彼の作品を珍しく開放的に捉える、料理教室主宰の女と2階で近しくなってる。また、その1年後には3階の部屋で同居の2人。恐れを感じる、と言うへ神や宗教の存在や必要を語る。女が出歩き不在がちに、端から一人が向いてる、と自己を鬱々慰める。更に1年後か4階、既に女は消えていて、監督は体調も不良、長く映画もつくってない完全低迷。次の不動産探しや、神の映画制作指示の話聞いてやり、に細々世話のまた別の女。ラストで三年前だかに戻ってて、所用から帰り、食事処のボーイと車らの話。
 妖しく巧妙でスマート、無理ない先細りのみの、往年の名匠デュヴィヴィエ的銘品趣き。近年作のモノクロでの覚束なくも確かさ求め傾向の、ある種の回答か。だが、名作然にどんな可能性と未来があるのか(ホンが、いくら名画でもデュヴィヴィエ止まりでは困るが)。作年末、この後の2作が上映されて、ニューアメリカンシネマばりの外し方が話題になったようだが、法事他で2回とも東京におらず、観てはいない。
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 事実二本立てで三見の、その前作②を見ると、軽妙から堅めになる流れが強まってたのかも知れない。ショット始まりからかなり遅れてのズーム使用、普通の話流れに変に棹さす逆流性生まれとそれが主流に、等作品のそれまでの融通無碍から、辿々しく見えても、立ち止まり硬直に見え化を意図的に行ってる。人との接触・創作を断ち、郊外の店で細々も無理なく集まる場主宰の後輩を訪ねくる、かなり大家の女流小説家。その後連れてきて貰った名所、タワーや公園で、旧知の映画監督(夫妻)や、互いにファン同士の女優と会う。女優の甥の映像科学生も加わり、短編映画作りの話盛り上がった後、呼び出しの女優に尾いて行ったのが、最初の店。規模増しての反復の照れと打ち解けの構造の意外も持ち味の妙。監督や甥は既に意見違えや用事で去りも、小説家の先輩詩人、端からいた演技の道断念も・作家マニアのバイト娘33歳らも入り、計5人の酒宴。未知分野への創作意欲もより湧く、プライベート親密再確認と裏の愚痴も。1ヶ月位経過か、その小説家の短編映画完成披露試写への、製作は無心細密聞いてる割には、チグハグ時間ズレての照れ・一服隠れもあっての参集。そう、ここの人物らは、女流作家以外、殆んど控えめ(「純粋」「清らか」)で、誇張アピールに疲れた彼女も含め、本来の表現の道を中断か、迷い留まってる(「もったいない」「いや、それは本人が決める事。他人の人生を、当人決断力以上に、生きられるのか」)。しかし、他人の存在や構想を、自己の未知の未来の構築要素として純粋に得た時、新しくいきいきとしがらみ抜けて、皆が何気に歩みだす。終盤、製作された「ドキュメンタリーではない物語を持つ」筈の短編映画の部分が観られるが、女優と老婆が紅い葉を混ぜる枚数を考える草の束の、プロとも思えぬ覚束ないが極めて美しい、本来のモノクロからカラーに移る作が、映画性全てからスッと逸脱屹立してる。
 ③は、プロとしての揺るぎのない確実な力強さを放棄し、夢か劇中映画・夢幻的光景の自由介入、ウォーホルクラス・商業映画タブーのワンカット複数ズーム安易大胆使用が始まったらしい、作。プライベートと創作の差がなくなり、何の為のフィクション・ストーリーなのか、作品スタンスが読めなくなってくる。その分、入れ子構造や繰返しが現れてもくる。多くが無意味へ向かう感触。酒好きが不健康や不健全認識に至る、を改める為、控えめに徹しようとしてる中心人物らも他作と共通。「男(女)を見る目がなく(失敗繰返し)」もよく聞く。ヒロインも、目・胸・背共に整形と無縁の純アジア風。「純粋」との他人評価も必要以上に頻出。しかし、主人公は仲間からの「嫌われ者」で、その心を奪われる女優も事務的行動で客観的にはスターには至らない。まだまだ生々しさが残る期で、ヌードや性交絡みも割りと普通に。初期のシビアさと鮮やかさは残るも、画面にすら明らかでない内面の通底は出てきてる。
 前半の劇中映画の若い2人も、後半の現実現在の、末期癌と闘病中、回顧展やカンパ集会を催されてるその監督と、旧知で今そこへ舞い戻ってきた2人も、「終わりにしたい。心中、いっしょに死のう」と漠然と死に取り憑かれてる。その(前半に掛かり、より若く、名前も本名で同じの後述女優主演)短編作に、私生活とそこの題材勝手に奪われたと今の燻りの因としてる後輩監督と、監督との仲はデビューさせてもらい、その縁で金の貸して心離れただけの関係なのか、の女優。直に会いにゆき、付き添ったらしく、泣き顔も見せる、彼女は後輩監督に、その解釈は「誰でもの自分可愛さゆえ、の間違い解釈はある。(延々縁の)貴方と私も、(ここで)おしまい」とピシャリに至る。劇中映画の様に彼を待ってはいない。2人は前後して、生死峠という監督を見舞うが、「生きたい、死にたくない」と言う姿に後輩は、「思考が全て。いかに現実に対するかの姿勢」に至る。
 先に言ったように、初期のシビアなキレに、それを妙に丸め染み来させる内面性が重なりき始めてる。現実は重いだけではなくなってきてる。
 ④は、デジタル初期作か、浅い画質はアマのようで、作品レベルもそんなもん、内容も、寂しさゆえか、或いは独自な論理煙まき名人の自己陶酔か、病んでる二重人格なのか、会う度に初対面と、現状を取り繕い、次々に交際求めてく稀代の浮気?女(魅力がこちらへも浸してはくる)を、「正体失うに至る、その過度の酒好きは控えめに」を約してる婚約者の疑いと取り繕いの話を、BOと軽い音楽で区切り場当たりテキトーに描くもの。少し離れた所からの目撃と視界の逢瀬の角度、幻視や夢の無断入り、長めパン・ティルト・ズームと戻り駆使の現れ消え、で長回しの停滞はなくも、素人発想手法。
 「破ってるを目撃してると言う友人らと一緒になったら。私が嘘をと、信じられないの。約束は人と関係を縛るだけ」と実家へ戻る女に、「実際に見ずに。直に感じることだけが大事」と、反省しきりに会えぬを追い回す男。その間も幾つかの飲み屋らで、複数相手とそのかち合いに、「初対面」と煙にまき続け、「もてず人生が、ある時から逆転」を楽しんでく。しかし、自分を取り合う2人の中年が、中学同窓同士と分かり、自分を置いて話し込み、疎外感に離れ泣いてると、自分を探してた婚約者とやっと会う。しかし、あくまで初対面の(似てるかも判らぬが)他人」と言い張るうちにベッドイン。互いに何かを分かりつつ、演技かマジかを続けてく、より深く柔らかく。「我々はセックスの相性もいい。知ってるつもりはダメ。只純粋に見てるだけでいい。感じ、少しずつ知ってば、それでいい」とリセットを深く成して行き、やはり夢内の事か、姿を見失いに気づくと、女がスイカを持って戻りきて2人で賞味、そのテイストは新鮮な格別を与えくる。作品が体をなしてないこと自体が、得難い感動や発見に至らしてくれる、不思議で軽すぎ、に扱いかねもする作。が、乏しさ・侘しさの極みを更に抜けた、ユーモアや始源の暖かみを得ることができる。理解分類捨てて、幻、夢か現か、レベルに素直に観てゆくのがいい。
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 ピアラは遺作の安定期を味わいたかったがならず、中期の荒々しくも、実はホンと真反対に、映画を完全実現体現してる作『ルル』を代わりに、本当に久方ぶりに再見し、やはり映画とはかくあるべしを実感する。ホンの作は、果たしてあるべき映画なのか。確実にそれも、より本質的映画、映像作品と思いつつも。映画を体現する味わいは、エリセ・キアロスタミ・ヴェンダースらに固有のものかも知れない。ピアラもその流れだが、この流れの大家レイの両面性への惹き付けられはともかく、大ファンではない。
 いかにもフィルム的なエッジが尖らずマイルドで深みあり、時にスモーキーな、都会夜景や室内。ディスコや力関係の激しい動きにフィットの揺れ平気の手持ちカメラの長い息づかいの伸びと絡まり。新規内的動きでの不意のカット替えの張りと才、横顔どんでんや90゜変らの類する張出し角度変えのキレの内在。一方的邸内やり取りらの3脚カメラカットの揺るがぬ組立。
 務所を出て間無しも多く、掃除婦の母にもせびり、無職でセックス自慢のホテル転々ツケ押し付ける者らのグループも、自分の事務所を持ち、豪邸持ち、交友も文化触れも豪気優雅な者らのグループも、そこを游ぐ女をめぐり介し、一発触発の緊張に至るも、底では異質な互いを認め、不思議に行き来を拡げ、助けもする。女は後者の公私パートナーだが、押し付けやムラっ気に対立や出て行きもし、行動も人間関係も自由で規制ない後者に嵌まり、社会的地位や金不足を支えても行く(ヒロインの兄等明らかに接触ムリのハイクラス人間もいるが)。寧ろ、はみ出し他グループからの騙し討ち、母と叔母の田舎での、養子やり取りや実子鬱屈爆発、の内輪暴力の脅威と突発噴出。出来た子もそんな環境で勝手堕して、大元のモメへ。安易な対立事項はみ出しの、可能性と歪みの作者近場の不思議なリアリティや流動。私映画に近くも、ホンの勝手気儘の緩さとは別物、ほんもの映画を思い知らす。
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