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愛と哀しみのボレロのkonoesakutaのレビュー・感想・評価

愛と哀しみのボレロ(1981年製作の映画)
4.1
母親は私にバレエを習わせたかったらしい。本作がテレビで放送されるときに無理やり観せられた。まだ私が小さい頃だ。
以降ジョルジュドンが私の中のバレエのスタンダードになった。

戦争でかなりバッドに翻弄された芸術家たち2世代4家族の物語が、劇場で演じられるバレエ「ボレロ」の前で収束する。

劇中歌、ラヴェルの「ボレロ」。この曲は麻薬だ。1928年に作られた秀逸なバレエ音楽であるとともに、私は計り知れないアンビエントミュージックだと思っている。心地よい2つの旋律が延々と続く。 小太鼓の限りなく小さな打撃音がする。そこに美しい管楽器のメロディが家のドアを静かにノックするようにやってきて去っていく。また違う楽器が同じメロディを奏でながらノックして帰っていく。彼らは副旋律として小太鼓やティンパニーと共にリズムを刻む。細やかな支流が次第に水量を増し大きな流れとなるように、演奏する楽器は増え音圧が増していく。もはやそれはノックとはいえないレベルだ。相変わらずメロディは同じ、よせてはかえす。もういくつの楽器がかさなっているのかわからない。大河のごとく演奏が重なったときに唯一の転調が発生する。これまでの単調な繰り返し、そして緩やかなエスカレーションの全てが伏線となる。かくして曲は急転直下、一気に劇的な終焉を迎える。聴くもの全員を叩き落とし魅了する。この曲を演奏する者は冗長した反復をキープする段階でとてつもない興奮を覚えるのではないだろうか。それまでの優雅な退屈を吹き飛ばすほど威力があるラストが用意されていることを知っているからだ。

この曲こそ本映画の構造ではないかと思っている。

背景に戦争、芸術と持ってきてはいるが、そこまで掘り下げたものになっているかといえば疑わしい。どこかで見たようなエピソードの集合体であったようにも感じられる。ただこれらがラストのジョルジュドンの神々しい舞の前段のメロディになっていることは間違いない。あえて群像劇にする。一人二役などもつかい、楽器や音を重ねるかのように人物をちりばめていく。これでもかと広げられた人間模様がラストにピンポイントに集合させられるのである。しかも物語として平坦だったものが急に抑揚を持って。

また、ジョルジュドンの踊り自体も最初は退屈に感じる人もいるのかもしれない。でもそれこそが「ボレロ」だ。反復から次第にエスカレートしていく。手のひらのかえりやつま先からかかとまでの上下だけでも情熱の塊を感じさせられる。鍛えられた体から発せられる伸びやかな躍動は演技という枠ではとてもではないがおさめきれない「芸術」そのものだ。

そう考えると先ほどに述べた本作のエピソード一つ一つにも魂があったのかもと良い意味で錯覚させてくれる。

周到に準備されたラスト。監督やスタッフはこの場面に観客全員が釘付けになるであろうことを打ち震えながら、身悶えながら映画製作したのではないだろうか。ジョルジュドンが踊るボレロをエースとして用意しているのだ。これはラヴェルのボレロを演奏する全ての者に与えられた特権と同じような気がする。

個人的にとても思い入れのある映画だけに30年ほどの空白を埋めるべく舐めるように再鑑賞させてもらった。