晴れない空の降らない雨

霧の中のハリネズミ/霧につつまれたハリネズミの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

5.0
 昨年ノルシュテインの特集上映後のトークショーで、誰だったか忘れたけど「昔はノルシュテインの代表作は『話の話』だったけど、いつの間にか『霧の中のハリネズミ』になっていましたね。これも時代ですかね」とか言っていた。
 実際、この特集上映のチラシもBlu-rayのジャケットも同じ本作のスチールが使われているのでその通りなんだろう。俺自身、最初の2作や『話の話』はともかく、童話モチーフの3作『キツネとウサギ』『アオサギとツル』『霧の中のハリネズミ』のなかでいえば、これが一番好きである。のみならず、大半の人間はこの作品を最も気に入るだろうという謎の確信まである。
 
 やはりマルチプレーンカメラと切り絵の質感による画面の立体感が、その確信を抱かせるのに大きく寄与していると思う。つまり、この作品はストーリーではなく、キャラクターですらなくて、ある世界を体験させることにおいて突出しているのだ。反面、ストーリー性やキャラクターの性格や感情の明示性は前2作より弱い。
 その代わり、前2作において後退していた、イメージやその連鎖(モンタージュ)の強度が復活を遂げている。音響による喚起力もずっと深化している。さまざまな視覚的あるいは聴覚的な断片は、観る者の頭のなかで曖昧だが有機的に結合して、ひとつの世界を形作っていく。まさに映像詩という言葉がふさわしい。
 これらの特徴は、むしろ『25日、最初の日』『ケルジェネツの戦い』といった最初の作品に立ち戻ったものである。これら初期作がもつイメージの鮮烈さと、それらにはなく『キツネとウサギ』『アオサギとツル』にはある分かりやすさ・親しみやすさ。両者を兼ね備えているのが、この『霧の中のハリネズミ』といえるのではないか。
 
 とはいえイメージそれ自体の印象の鮮烈さ、というだけで初期2作と本作を同一視するのはさすがに雑すぎるので、自分が惹かれた本作ならではの特徴を考えてみよう。するとむしろ、逆の傾向もみてとれるのだ。それは「イメージの断片性」、言い換えると「モンタージュの弱さ」である。
 そのための舞台が、マルチプレーンでリアルに表現された「霧」である。霧は、世界を未分節の原初状態へと戻す。すぐ側のものしか知覚できなくなることで、目にとびこむ諸々のイメージは断片化される。例えばコウモリは「コウモリ」でなくなり、ある形や速さ、黒という色をもつ「何か」になってしまう。それはすぐれて現象学的な体験である。その証拠に、これらのイメージの多くがPOVショットで映されている。さらに、切り絵や音響のリアリズムは生々しくすらあり、時としてホラーに近づく。初期作の力強さが組合せから生まれたものであり、絵や動きといった素材の1つひとつは様式化・単純化されたものであるのとは対照的である。
 一般にモンタージュがイメージを組み合わせて意味を発生させる技法だとすれば、本作にイメージは意味以前の地平に現われる、といえるだろう。それはまるで悪夢のようだが、人を陶酔させる体験でもあるのではないか。かつては誰もが未分節のままの世界を知覚していたとすれば、そんな忘れ去られた体験、「懐かしい」という気持ちさえ及ばないくらい深いところに眠っている感覚を、本作は呼び覚ましてくれるのかもしれない。
 そしてハリネズミにとっては、霧の中でくぐり抜けた経験は、イニシエーションという意味合いをもつだろう。最後のナレーションは、彼が日常世界に還ってきたこと、しかしこの経験を完全に忘却しきることはないであろうこと(彼の内奥では確かに何かが変容したこと)を示すものだろう。