完全な正義、完全な悪なんてものは、この世には存在しない。この世にあるのは、曖昧な存在だけ。どこかで人を傷つけ、どこかで人を喜ばせる。全方位から「善人」、「悪人」なんて評価は存在し得ない。
人の行いは、因果応報なのか、それとも、そこに理由は存在しないのか。人は何かをしたとき、特に悪いことが起こったとき、理由を探すけれど、それはこじつけだったりするのではないか。彼と酒を飲んでいた自分を責めるしかない、けれど、それと事故と殺人に本来関係はあるのか。酒を飲んでいた彼に罪はない。そして、罪人を救いたいと思った彼にも罪はない。権力を行使した司法が悪人か。そんなことは決められない。
「殺人」という行為は、バイオレンスな映画のように、血が飛び散ったり、人がぶっ倒れたりするような、劇的なものではないのだろう。「殺人」とは派手な行為ではない。そのうえ、死刑という名の殺人は、あまりに作業的で淡々とする。あまりの簡潔さに目を覆いたくなる。
人は簡単には死なないし、簡単に死んでしまう。
彼の流した涙はどこへ行くのか。明日の糧にするか、そんなものではない。1つ1つの死を、自分の体につきさしていくしかない。
どこまでも冷たくて、辛いのに、何度も書くけれど、その姿を生々しく見せるキェシロフスキは厳しいけど優しいと思う。
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・ミロツワフ・バカ、素敵な俳優。
・キェシロフスキとともに脚本を執筆したクシシュトフ・ピエシェヴィチが弁護士だったのは関係あるのだろうか。
・弁護士役のクシシュトフ・グビロジュは「木漏れ日の庭で」ふてぶてしい息子になっていた。