自分のことは一番自分がわかっているって発言はなんて烏滸がましいんだろう。
自分の行動に責任持てなんて言われるけどそもそも何故それしたかなんてほんとに分からないんだよ。少なくとも僕は分からない。やったら絶対上手くいかないんだ、そしてほんとダメなんだ。でもしちゃう。それに「理由」はあとでつけるけどあとでつけたのはまさに後付の「理由」なだけなんだ。
それでも「したい」ことがあるの。そしてそのために僕らは生きているのかもしれない。夫である瑛太は「逃げたかった」、そしてリリーフランキーはお金をもらってなくても調べたかった、そして井浦新は真木よう子に会いたかった。そう、なぜそれをしたいかは関係ない。それが「したかった」。僕らの世界は「したい」を無理に理由つけて「正しい」にする。でもそれは仮装でしかない。僕らの気持ちを都合よく「でっちあげる」。そして今泉はそれに対し、「理由なんかないんだ」と言うかもしれない。だって今泉も(そして僕も)理由なく動くことがあるからだ(というかそっちのが多いんだよ)。
不思議な映画だと思う。僕も乗り切れないけどなぜか最後まで見てしまった。そして最後になればなるほど「わからないけどわかる」が大きくなっていく。最後の井浦など、なんてものを見せるんだって気持ちまでなる。僕の中での「わかる」はどうでも良くなりただただ「見る」になる。
体が先に動いてしまうことがあるんだよ。それだけで十分なんだ。
※銭湯の水がどばどばと流れているシーンが多く見られる。あれは何の比喩だろう。自分の頭の中が流動的で明確でない比喩なのだろうか。しまった、またわかろうとしてしまった。今作は「わかる」を排除しようとしたのにねえ。よくない、よくない。
※ウソはついたことがありますか。当たりまえだけど自分も当然あります。子供のころはウソをつくと胸が痛くなっていたが大人になるとそれも別になくなってしまった。それが悪いことだということなんか百も承知なのに。瑛太の言葉にドキリとしたけどそのときだけだ。
※今回久々にレビューを書きにくい作品だった。ずっと悩んでしまったよ。それはこの映画のせいだ。通常映画は「見てほしい」ものを全面に出すけど、この映画ではあえて控えめにしている。それは映画と言えるだろうか。でもこれも間違いなく「映画」だ。