リジー

パスト ライブス/再会のリジーのレビュー・感想・評価

パスト ライブス/再会(2023年製作の映画)
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まず第一に"何故これがアカデミーに…⁇"と感じた。ストーリーに何か深みや捻りがある訳でもなく、そこら中で見てきたように感じるありきたりな内容。

そして何より倫理的に受け付けない。アーサーが、ノラがヘソンに会うことを許すのはアーサーがノラのことをそれだけ信頼しているからだ、という風に解釈している人を多く見かけたが、そのようには感じられなかった。ベッドでのノラとアーサーの会話からは、ノラがそれだけアーサーを愛しているようには思わなかった。ノラがアーサーと共に生きる理由は全て"そうなったから"、"移住したから"でしかなく、愛してるも後付けにしか感じない。アーサーも言っていたように、内心それを分かっていながらも一緒にいる。まああの3人がああやって過ごした全ても"縁"に集約されて、縁ってすごく便利な言葉なんだなあと感じた。

ノラとヘソンの間にある"縁"も、2人の関係値の描き方がありきたりすぎて、お互いをあそこまで想い合うほどの何かが全く分からない。そもそも、小学生の頃から24年も経てばもうそれは全くの別人ではないか?ただ淡々とした中身のない2人の関係性を描写し続ける時間が長すぎる。そこまで長い映画じゃないのに時間がもったいない。ヘソンが24年も経ってあそこまでノラに惹かれ続けている理由もまじで分からないし。初恋は強烈だから?愛に理由はない系?優柔不断な癖に既婚者(初恋の相手)とその夫そっちのけでベラベラとポエミーなこと話し続ける神経が怖い。

同じバーの席で、自分の妻が幼い頃からの"縁"で繋がっている初恋の男とたった2人きりかのように自分の知らない言語でベラベラ話し続けられるアーサーの気持ちを考えると…。いくら旧友同士の再会とはいえノラもヘソンもアーサーに配慮礼儀なさすぎない?しかも既婚者が夫の前で話すような内容かよ^ - ^最近は何でもかんでも個人をもっと大切に!尊重しよう!って風潮が強いけど、それは誰か傷付いたりする人がいない場合だけに許されることじゃないの?自分たちの間にある"縁"とやらに酔いしれて運命の2人を演じ続けるのは勝手だけど、それが許されるのはお互い制約がない場合だけでしょ…。自分達が一緒になれなかったのは全て自分達の選択してきたことの結果(ノラが当時望んでいたにせよ望んでいなかったにせよ、親の都合で移住させられたことだけには同情する)なのに、妙に縁が縁が連発していてなんだかなあと。既婚者になったなら、せめて夫だけには悟られないようにすべき感情をダダ漏れさせているのも、自分のために会いに来たとわかっている相手にわざわざ会いに行くのも、そこに夫を同席させた上に夫そっちのけなのも、全て見ていてキツかったです。
そしてラスト、おそらくアーサーの前で初めて感情を爆発させたノラを受け止めるアーサーの懐の深さ。アーサーが自分のことをここでは"邪悪な"存在だというように言っていたけど、この映画を見て実際にノラとヘソンを応援し、アーサーを邪険に思う人がいると知ってそれにも驚き。

"縁"という言葉には親近感を持つし、美しい響きを感じるけど、この映画ではそれがすごく軽く都合よく扱われているように感じてしまった。ノラの移民としてのアイデンティティもテーマの一つだと思うけど、そういう細々した全てが"ノラとヘソンの縁"に集約されている。私は"縁"があったのはノラとヘソンの間だけとしか思わなかった。この2人は、どこで何しててもお互いを思い続けるだろうし、どこかで繋がっている気がする。でもそのレベルのものはノラとアーサーの間にはない。ノラとヘソンの間にあったけれど、お互いを味方はしてくれなかった"縁"。

まあとにかくアーサーの心情を思うとキツいな〜と感じる映画だった。自分の妻が夫の自分以外の人間と間違いなく心で繋がっていると悟るのってしんどくない?ノラが終盤ヘソンに「あなたの元に12歳の自分を置いてきた」みたいなこと言ってた(極平凡なテーマに、こういういちいち詩的な、非現実的な言い回しが加わるのにも得体の知れないゾワゾワ感を感じるし…)けど、ノラもヘソンもまだまだ12歳のままじゃない?って感じるくらいには幼い36歳でした。あとノラがどこか言葉に人間味がなく感情がうまく読み取れなかったし、自分には合わない映画でした。
観る前期待しすぎた自分も悪い〜₍ᐢ_ _ᐢ₎🌀
リジー

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