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虎の尾を踏む男達のKamiyoのレビュー・感想・評価

虎の尾を踏む男達(1945年製作の映画)
3.8
1945年”虎の尾を踏む男達” 監督.脚本 黒澤明

終戦間近に作られた本作は封建的を理由にGHQから上映許可が下りず、初公開は1952年4月と7年近くも日の目を見なかったことは実に不幸な話だ。
色々と理由が語られているが、敗戦後まだ残っていた内務省検閲で日本の古典の「安宅」や「勧進帳」を改悪した為、愚弄する作品と認定された為と言うのが真相らしい。

能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を基にした黒澤監督初の時代劇である。平家を滅ぼした殊勲者である義経を兄の頼朝が討ち取ろうと安宅に関所を設ける。
一方の義経は山伏に変装し弁慶らを従えこの関所を越えようとしていた。大層な兄弟喧嘩の始まりである。
作品はミュージカルのようで、歌詞で心情や動きを表現し、さらには戦時下で物資や人員も少ないなかで
台詞のやり取りをするより時間短縮の効果もあるようだ。

オリジナル・キャラクターに扮したエノケンのおかげで、義経一行が醸し出す哀しみを帯びた雰囲気に可笑し味と滑稽さが加わっており、コメディーとして充分に楽しめる作品になっているのが特徴。

ストーリー自体は至ってシンプル。 
頼朝の命により、平家討伐の立役者から一転追われる身となった義経一行が、支援者である奥州藤原氏の元へ逃れる途中に通らねばならない安宅の関(現在の石川県小松市)を如何に越えるか!というもの。

クライマックスは安宅関の場面、山伏姿の弁慶を疑う関守の富樫が「勧進帳を読め」と言うのだが、偽者の弁慶が持っているはずもなく、白紙の巻物をさも何か書いてあるかのように堂々と読み始め、さらには強力に扮した義経を偽装のため杖で打ちつける等、ここは一番の見所だろう。
やはり義経に対する彼の一本気な忠誠心が涙を誘いました…。

最後は「杯」富樫が弁慶らのあとを追い、酒を振舞う場面。そこで弁慶に差し出された杯には九曜の紋が描かれていた。これは平家の紋で、複雑な表情を浮かべながらも
酒を飲み干す弁慶。
これらの見所は富樫が弁慶らの正体を知りながら、見逃していたことに繋がる。特に最後の「杯」の場面は、弁慶にも富樫の気持ちが分かって、万感の思いだったことだろう。その心情は「人の情けの杯」と歌われている。
また、酒を持ってきた家臣が義経に頭を下げかけ思いとどまるのも、細かいところまで行き届いた演出で心憎い。
人間本来の心の美しさが垣間見えるようでした。

榎本健一エノケン当時人気NO1のコメディアンであった
彼を強力(荷物運び)の役どころに据え、十分に魅力を引き出している。
コミカルな強力役のエノケンは外せないだろう。
物語を分かりやすく伝える「狂言回し」であるとともに、見ている側の心の声の「代弁者」でもある。先に述べた「大層な兄弟喧嘩」も私の声と同時にエノケンの声でもある。
そんなエノケンの最大の見せ場は「飛び六方」である。
夕焼けをバックに花道のような獣道を転がるように飛び六方で去っていく場面は、この作品の作風を表している。
見事な幕引きだ。

大河内伝次郎さんの弁慶の堂々たる立ち姿や元の歌舞伎をリスペクトした台詞回しなどは圧巻。
この人、時代劇だとあのしゃべり方になってしまうのだろうか。何言っているのか、よく分からない。
まさに独特なセリフ懐かしいです
安宅関の責任者・富樫を演じたのが姿三四郎の藤田進。
とても良い人に見える。義経一行のことを気付かぬ振りをしてくれる好人物にピッタリだ。

義経に仁科周芳(10代目岩井半四郎)(仁科明子の父)
一行に森雅之、志村喬、河野秋武らがいる

製作されたのは1945年の9月。まさに終戦直後である。
こんな時期に黒澤監督は伝統芸能に基づいたとびきりの娯楽作を作っていたのだ。
彼の映画に対する姿勢を覗い知れる作品と言える。

ラストは、歌舞伎「勧進帳」で弁慶の見せ場である”飛び六方”を、強力 エノケンがドタバタとやってのける。
洒落ているではないか。

*わずか58分の小品です。何かのついでにでもご覧下さい。大河内伝次郎の滑舌があまり良くないので、字幕付きでどうぞ。
後々彼らが辿る運命を知っているだけに、ラストシーンに寂しさが漂っていて、深い余韻が残りました…。

勧進帳は「男たちのドラマ」なのです。
主君である義経に対する弁慶の忠義心の強さと、その弁慶を信頼してすべてを委ねる義経の覚悟、正体を知りつつも弁慶の忠義に打たれて関所の通過を許す富樫の情の厚さ。

現代社会では忘れられつつありながら、日本人の心の中に脈々と受け継がれる男たちの魂の物語。それが勧進帳の魅力なのです。

また勧進帳は判官びいき 言葉発祥の元
wikにて
判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた 同情や哀惜の心情のことであり 、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象 を指す。「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。
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