吉田監督の優しさと意地の悪さが体感できる作品だと観ていて感じた。
そもそも「優しさ」とは何か。それは「相手のことを思いやること」だと思う。今作でも子供のことを思いやるとき、石原さとみは半狂乱になる。そして「無償」になる。彼女はいても立ってもいられなくなり、そして自分とは関係のない人のことまで助けようとする。それは「相手のことを思うといてもたってもいられなくなる」からだ。
翻って意地悪さとは。さっきまでの言説をそのまま流用すれば「相手のことを思いややらないこと」だ。自分のことだけで手一杯、あるいは相手に関心がない。そしてそれはそのままストレートに相手を攻撃する「理由」になる。
そう、世界は「相手のことなんか考えてない」で満ちているんだ。ネット世界を見てみればわかるんだ。自分を発信するという行為はそのまま、相手より自分が大事に帰結する。結局「わからない/わかろうとしない」はそのまま相手を刺す刃物になる。
「空白」でも「神は見返りを求める」でも「ヒメアノール」でもその「相手のことを考えない」世界こそが吉田監督の考える「悪」なんじゃないかとふと思った。意外と一貫しているんだ。吉田作品はどれも「相手のことを考えない」を糾弾しているとしか思えない。
発言する前にまず考えるべきじゃないか。その不用意な発言/不用意な行為がどれだけ「相手」を傷つけているのか。宇野常寛も「遅いインターネット」でそのことには言及しているけど、そろそろ僕らはネット世界での「正しい倫理」を考えるべきだと思う。それは正しいと思う行為を行うことではない。自分の正しさを疑問に思うことだ。そして書く前に「少しだけ考える」ことだと思っている。
今作品では石原はダメな感じの母親として描かれている。髪はぼさぼさ、好きなライブに行ってしまう。さらには着ている服も常にだらしない(着ている服に関しての言及はフィル友であるレインウォッチャーさんの考察が見事である)。そう僕らは自然「石原はしょうがないよね」という気持ちにさせる(それは漠然としている差別意識と同根だ)。でも映画を見ている内に「石原が悪くない」から「誰が犯人か」そう思うフェーズに変化する。よし、石原は悪くない。そうだ犯人が悪いんだ。ちょっと待て。結局僕らは映画を見ながら「犯人なら糾弾をしてもいいよね」を探しているだけなんだ。犯人は誰だ、早くその犯人に文句を言いたい。私に比べてなんてひどいことをする奴なんだ。
僕らは糾弾できる相手を舌なめずりしながら待っている。
そこに吉田監督は冷や水を浴びせる。そんな相手はいないです。そもそも「自分は違う」という自信はどこからくるんですか。あなたのその糾弾は本当に正しいんですか。そして「糾弾される相手」だとしても少しでもその人のことを考えたことがありますか。
「語りえないものについては沈黙せねばなるまい」(ウィトゲンシュタイン)
※すっかり吉田監督のファンである。毎作品どれも心を抉られる。抉られる理由は僕らが(無意識のうちに)良くないと思っていることをじかに見せつけてくるからだ。僕もたまにその毒にやられる。
※人は自分のことを理由に(仕事が忙しい/自分にも人生がある/後で考えるから)他者のことを考えなくなる。それが一番残酷なことだと知らずに。すいません、こんな風に書いているけどお前はどうなんだと言われれば同じ穴の貉です。だから吉田監督の映画を見るとつい自分に弾き被く。
※石原の演技も見事だけど、それより一見、気の強そうな感じなのになんとも弱い夫役の青木の演技が見事であった。青木は「僕ら」を体現している。どこのシーンかは言わない。