実際の誘拐事件。
身代金目的でもなく、殺人目的でもない。けれど、これは誘拐事件だった。
子沢山のユダヤ教徒の家族。その内の1人がエドガルド。赤子の時に、死にそうになる。というか、なっていたのかも今となっては微妙なところ。
ただ、女中アンナの目にはそう見えたらしく。彼女がキリスト教だったのが運の尽き。
ユダヤ人家族は皆、ユダヤ教を信仰しているのだ。だが、キリスト教は洗礼を受けずに死ぬと天国へ行けない。アンナは可哀想と思ったのである。
既にここで、宗教の怖さが1つ出てくる。
私は何かしらの宗教を信じている人も宗教も否定しないし、その人達が幸せなら素晴らしいものだと思う。
しかし、その「信じる者は救われる」信仰心というものが、時に自分本位になる場合がないだろうか?
求めてないのに、良かれと思った行動になる。
正にそれが、今回の事件の発端だったように感じた。この子供と家族を第一に考えたら、ユダヤ教で早く洗礼受けさせてあげてーって言うんじゃないの?
と言う事で、まさかそんな事されてると知らない両親。6年後に教皇領の警察により我が子は連れ去られた。
この作品、この歴史上実際に会った誘拐事件を考えるのに重要な事は、やはりこの宗教についてなのだと思う。
キリスト教だって、宗教だよな。
(厳密に言えば今回はカトリック)
てか、洗礼ってあんな素人の真似事みたいのでも、正式に認められるもんなの?
もちろん、家族は皆エドガルド(少年期エネア・サラ)を取り戻す為に裁判したり、イタリア統一軍にいた兄が混乱に紛れて教会にいるエドガルド(青年期レオナルド・マルテーゼ)を助けに行ったりと、何年も掛けて家族の元へ戻そうとするが、教皇の阻止にあったり、本人が帰らないと言ったりと最終的にエドガルドが帰る事はなかった。
それどころか、父の葬式には来ないし、母の臨終の際にはキリスト教に改宗させるような行動すらする。
洗脳。
家族の絆や愛をも受け入れず、ひたすらに信仰を続けるのが幸せなのだろうか。宗教の矛盾も感じる。
例えば、あれだけの洗脳が家族や何かしらの出会いで家族のもとに戻った、とか逆にエグい位にその洗脳で残された家族を陥れる、なんかがあれば物語的には良いのだろうけど、いかんせん事実に基づいた内容であり、時折イタリア統一の政治的な事も映しているから、正直少し気が遠のく。
ただ、その政治的なものが宗教にも影響した様子にも宗教の脆さも感じ、そこも矛盾だ。
また本人が何故、死ぬまでカトリックの司祭として生きたのか、途中に描かれた奇行とも取れた行動は妄想か現実かも、ちょっとわからなかった。
スピルバーグが映画化断念したらしいのですが、もしも描いていたならどんな作品にしていたか、今となってはわからないけれど気になってしまいました。