KnightsofOdessa

夜のロケーションのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

夜のロケーション(2022年製作の映画)
5.0
[イタリア、何もできなかった人々の物語] 100点

超絶大傑作。1978年3月16日、イタリア元首相アルド・モーロは誘拐された。彼が推し進めていた共産党との連立政権の信任投票が行われる、歴史的な日の朝のことだった。当時のイタリアは1969年12月12日に起こったフォンターナ広場爆破事件以降、極右と極左のテロ組織による衝突が断続的に続く"鉛の時代"という重苦しい時代にあって、モーロを誘拐した"赤の旅団"も極左テロ組織だった。誘拐事件は55日間にも及び、結局モーロは殺害されて事件は終わった。平島幹氏による超絶詳しいブログによると、モーロ誘拐殺人事件に関しては今でも様々な人間が様々な角度から検証し続けるほどのトラウマを残し、イタリア現代史の空白になっているとのこと。ベロッキオは20年前に『夜よ、こんにちは』でも同様の題材を描いている。同作では誘拐実行犯が主人公となって、社会と非現実の狭間にいる人間たちの極限を描いていた。

本作品は六話構成のドラマである。五話目まではそれぞれ、モーロ、彼の"息子"として共に政治人生を歩んできた内務大臣フランチェスコ・コッシーガ、モーロの友人で時のローマ法王パウロ6世、赤い旅団メンバーで誘拐事件の参加者アドリアーナ・ファランダ、モーロ夫人エレオノーラが視点人物となって、モーロ誘拐殺人事件の顛末を時系列順に追っていく。コッシーガ篇では、彼が警察のトップということもあって、捜査情報とその混乱を網羅的に描いている。同時に躁鬱の彼が"父親"的存在であるモーロを助け出そうともがき苦しみながら、何もできない様子を描き出す。終盤で極めて嘘くさいタレコミを信じて精神病院に駆け込む展開はエレオノーラ篇でも繰り返されている。ここではコッシーガの政治的信条(反共や社会的弱者への軽蔑)とエレオノーラの信心が分かりやすく対比されている。パウロ6世篇では、公人としての彼と私人としての彼を対比し、キリスト教徒のトップという立場にありながら苦悩する教皇の姿を描いている。身代金も超速で用意して裏工作したのが裏目に出て捜査を混乱させ、キリスト教信者ではない旅団メンバーへの問いかけに思い悩む。高齢にも関わらずシリス(痛そうな鎖で断食に似た軽度の身体的懺悔効果がある)を腹に巻いたり、等身大の十字架を背負ったり、不信心を打ち消すような?行動も、モーロ解放には効果がない。一方、旅団のアドリアーナ・ファランダ篇でも、信心が揺らぐ様を描いている。旅団メンバーも武力闘争が負け戦であることを悟っていて、勇敢に戦って死にたいだけだったのだ。監禁期間が長引くほど国民感情も悪化していき、他の共産主義グループもドン引きする中で、主要メンバーは殺害以外の選択肢を失っていく。ファランダはそれに意義を唱える。六度登場したオープニングで、パウロ6世が頭上に掲げる聖体と赤い旅団の丸星マークが重なる瞬間がある。一瞬だったので気付かれてないだけなのかもしれないが、かなりチャレンジングなことだ。正反対の彼らは本質的には同等の存在なのではないか、という、モーロによる問いかけをベロッキオが証明しようとしているのではなかろうか。続くエレオノーラ篇も含めて、これらの視点人物は何も出来なかった人々なのだ。それは当時のイタリア国民たちも同じことを思っただろう。

『夜よ、こんにちは』と同じく、本作品でもモーロが生きて解放されたシーンが挿入される。なんなら冒頭から解放されて病院にいるシーンで始まり、なんもしなかった三愚眼鏡コッシーガ、アンドレオッティ、ザッカニーニがバツが悪そうにベッドを囲む。或いはコッシーガの幻想として、生きているモーロが車のトランクから出てくる。まるで、そうでもしないと咀嚼しきれないかのような気迫すら感じる。"夜の外側"という題名も象徴的だ。

追記
第1話のラスト、全てが始まる瞬間に、ジャネットの"Porque te vas?"が流れ出す。個人的に思い入れのある曲なので嬉しかった。ラストでモーロがカメラを覗き込み、諦めたかのように目を閉じるのが印象的だった。君ならどう思うね?と問いかけているかのようだった。
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