映画漬廃人伊波興一

絞殺魔の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

絞殺魔(1968年製作の映画)
4.9
三つの視点が一点に凝縮された時、他ならぬ観ている私たちが(好奇心)という魔物に憑りつかれた別の人格を有していた事に気づかされます

リチャード・フライシャー「絞殺魔」

ヒッチコック「フレンジー」でいきなりテムズ川に死体が浮かんでいるように、あるいは黒沢清「CURE」でいきなりホテルのベッドで女が殴打されるように、フライシャーの「絞殺魔」も事件の発生から開幕します。

分割画面をふんだんに取り入れ、三つの視点全てがスクリーンに露呈されていく事で劇的な要素が強調される映画前半部は、およそ思いつく限りの猟奇殺人者像が列挙されていき、これでもか、と言わんばかりに犯人らしき人物が軽快なテンポでどんどん出てきて逮捕されていきますが、その過程は通俗的なテレビドラマになってしまわないか?といささか不安感が拭えませんでした。

そんな不安が一気に解消するのは、映画の折り返し地点で、「ノー・カントリー」のハビエル・バルデムの兄弟のような、どこか異様な雰囲気をまとったトニー・カーティスが、ケネディ暗殺事件のニュースが流れるテレビを沈痛な面持ちで見つめているカットが出てきた瞬間。

こぶし一発で、それまで異端視されていたヘンリー・フォンダが刑事たちと突然、連帯していくように、それまで物語の推移に抽象的だった私たちも、トニー・カーティスが記憶の遡行を試みる光のショットの戯れに神経を集中させることになります。

事実、後半の大部分を占めるヘンリー・フォンダがカーティスの二重人格の闇の部分を引き出そうと試みるこの尋問シーンは、前半の三点の視点からあっという間に一点を凝視する事に変貌していき、全く別の映画にして移行してまったかのよう。

そしてそれらは動物の鳴き声や見知らぬ人が響かせる足音に理由もなく苛立つような単純さに徹しておりますが、その単純さがきわめて不気味なのです。

ヒッチコックが得意としたエロチシズム的サスペンスとはまるで異質

猟奇殺人を描きながら、殺人場面は出ない。暴力場面もほとんど無いこの映画は、ただ人目に触れ、聴覚に響いてくるものそれ自体が恐ろしいのです。


女の衣類が引き裂かれる音。、
それを紐代わりにして女の手足をベッドに括りつけていく音。

カーティスは、足を縛り、手を縛る。そしてベッドの淵にナイフをドンと突き刺すまでという一連の動作を、何かをこさえている職人のように手慣れた様子で行い、そんな動作が上記の音と呼応するようにリズミカルなため、観ている私たち自身が直接的に暴力を受けている感覚に近づけられ、身震いします。

実際、少しでも虐待された経験を持ったかたなら正視に耐えらぬ筈。

そもそも犯人がトニー・カーティスであるのは明白。ジョージ・ケネディの刑事も状況証拠を押さえている。そんな「絞殺魔」という映画が謎解きモノであるわけがない、ばかりかサスペンス要素が濃厚でありながらエロチシズムが希薄。
ではこの映画の本質は何か?
ヘンリー・フォンダ検事は、医者に止められても、犯人が記憶を蘇らせ自覚するように促して行きますが、真相究明という大義名分のもと、尋問が始まった時点で、自分が猟奇殺人犯だと知ったらカーティス自身はどうなるのか?という(好奇心)という渦に観ている私たちまで巻きこんで進んでいきます。
そしてやがては犯行時の記憶が蘇り、犯行を自覚したと思われるカーティスが、二つの人格まるごと閉ざしてしまい無になる。

観ている私たちは、検事の好奇心に同調しながら、犯人が無になった瞬間、こうなることはわかってた筈なのに、とかつての好奇心が罪悪感に取って代わる。

私たちはカーティスの犯罪過程があまりにも触覚的だったので、コイツめ、自分が犯人と自覚したらどうなるか、とそそられましたが、そんな(好奇心)は得体のしれぬ異性からの誘惑のようなもの。だから事が終われば罪悪感しか残らない。
ヘンリー・フォンダ同様に他ならぬ自身の中に(好奇心)に毒された悪しき別人格を有していた、と。

被害者女性は言うに及ばず、私たちがそんな(好奇心)の悪しき犠牲者としてトニー・カーティスを認めた瞬間、画面が活気づくのはその為です。

この作品を観れば、不倫やDV、覚醒剤所持などで次々と糾弾されていく芸能人たち、不正疑惑を追及される政界、経済界トップ陣、ハラスメント噂の絶えないスポーツ業界の監督、親方などをフライシャーが撮れば、すごく魅力的なダークならぬグレーなヒーローになるんじゃないか、と不謹慎な想像が頭をもたげそう。
それにしても、好奇心そのものを自覚させ、その残酷さを見せつける、リチャード・フライシャー監督。
さすがはあの恐ろしい「マンディンゴ」を撮るだけあって、映画史最凶の確信犯ですね。