【映画における夢の役割について】
最近、映画にゲームの要素が含まれるのを目撃する。ゲーム関係の映画化は抑えておく必要があると思い、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』を観た。本作は、ゲームセンターのような場所で警備する者がアニマトロニクスの襲撃から身を守り5日間耐える同名ホラーゲームの映画化。VTuberの配信で観たことあるのだが、ジャンプスケア系の怖さがあるタイプの内容であった。これを映画化したわけなのだが、ファンムービーとしても厳しいものがある気がした。
まず今年観た映画の中でトップクラスに難解であった。なんといっても、映画の中で合意される常識が異様過ぎてついていけなかったからである。30代に見える老け顔の青年マイクに、小学生ぐらいの妹がいて、親権絡みで闇を抱えているらしい。青年は何故か廃墟のレストランの夜間警備をすることになるのだが、そもそもそんな廃墟を警備する必要があるのかと疑問符が浮かぶ。マイクがアニマトロニクスと戦うのかと思いきや、彼が帰宅した後に現れたコソ泥軍団とアニマトロニクスが戦い始める。使いまわされる退屈な夢、何故か警察官もマイクも妹もアニマトロニクスと仲良くなる。突然現れる「あんた誰」なキャラクターと数分に一度「?」が浮かび、中々想像していたような戦いを魅せてくれない。間延びされた虚無が広がっているのだ。いくらなんでもファンムービーだとしてもファンは喜ぶのかと思わずにはいられない。いったん、そういった法則はゲーム由来のものとおいた時に、「夢」の扱いの貧相さに頭を抱える。
夢とは深層心理にあるものが、当人の経験によって予期せぬ形で生み出された虚構である。自分の中の考えや感情がそこに含まれているため、虚構でありながら「夢」にいる間はそれを現実として扱うような特性がある。この特性を有効活用した例として『エルム街の悪夢』が存在する。異なる夢であっても、恐怖の本質が変わらないため、フレディが自由に夢と夢を飛び回る。当人は恐怖が増幅され、フレディのことに脳内CPUを使うので、どんどんと彼が強くなるのだ。
しかし、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』では毎回原っぱに青年が立たされ、不意打ちを食らうか不気味な距離感を味わうだけに留まっている。場と恐怖が密着した状態となっているのだ。これは分けた方がよいだろう。何なら廃墟のレストランにいる自分が夢か現実かわからない状態でアニマトロニクスと対峙させた方が良かったのではないだろうか。
続編を現在制作中らしいのだが、不安でしかない。