孤独を思い出してほしい。
我々は部屋でひとり、おもむろに力みっ屁する生き物であるということを。
我々は部屋でひとり、おもむろに服を脱ぎ、真っ裸踊りする生き物であるということを。
我々は部屋でひとり、おもむろに「I never knew a luh-luh-luh, a love like this/Gotta be somethin' for me to write this/Queen...」とラップする生き物であるということを。
もし、そこに他者があらわれたら。
すんごい恥ずかしい……恥ずかしゼミナールなのである。
なぜ恥ずかしゼミナールなのか。
それは我々の「個」は他者に晒されることで初めて、「狂気」に映るからだ。
だが、他者から「狂気」と映るものに、現代の我々はむしろ、誰にも汚されない「聖域」としての価値を見出だしている。
だからこそ、この映画におけるチャイムはおろか、他者から発せられる音というのが「侵入」という脅迫的な響きを持っているのではないか。
『回路』では、つながりの断絶が「死」と同列に扱われていたが、この映画では断絶された「個」こそが常である。
むしろ、つながりによる「死」を拒む方にシフトしているかのようだ。
主人公の視点からは、特につながりを拒絶する様が散見される(様子のおかしい青年を受け流す。料理に負のイメージをもたらす女性の拒絶。家族の不可解な行動をフルシカトする。面接で自分語りには饒舌でいながら、その「個」と「社会」の交わりになると、まるで話せなくなる)
こうして書きながら、断絶された「個」が、主人公の周辺では噴出していることに気づいた。それは裏を返せば、その人の「たすけて!」なのかもしれない。主人公はそれをキャッチしなかったが、つながりというのは毒であると同時に、やはり薬でもあることを示唆しているのかもしれない。
私には「狂気」を解放する「狂気」と、「狂気」を抑圧する「狂気」、どちらを選択するべきか分からない。
ただひとつ言えるのは、デリバリーで置き配注文しても、結局チャイムは鳴らされるわけで、私は対面注文と遜色ないくらいには、部屋でひとり、ソワソワしちゃうのだ。
っていうことで、ひとまず手を打っていただけないすか?
こうやって、でまかせ書いて、黒沢映画の「わからなさ」から解放されたつもりで、しばらくは快食快便快眠で生きていきたいのですが、ダメすか?
もう俺、そろそろっぽくて。
ほら、さっきからずうっと鳴っちゃってて。