JAmmyWAng

呪怨のJAmmyWAngのレビュー・感想・評価

呪怨(2002年製作の映画)
4.1
ビデオ版と比較すれば、伽椰子&俊雄の恐怖が幾分コンセプチュアルな性質を帯びていると思う。
清水崇自身がインタビューで語っているように、「人はどうして闇を怖がるのか、というところに伽椰子をダブらせている」というワケで、それは取り分け家屋において自然的に生成される暗闇である。

押し入れ、屋根裏、仏壇、布団の中。今作においては、そんな暗闇の中に怪異は巻き起こるワケだし、シャワーで髪を洗っている時の後頭部だって、死角という心的な暗闇性を孕んでいるのではないか。さらに言ってしまえば、部屋が薄暗いというだけで、閉じられた空間に暗闇という恐怖の源泉が、密かに漂っているのかもしれない。

クライマックスにおいて、理佳(奥菜恵)が自ら手で顔を覆う事によって暗闇が作り出され、彼女はその中に恐怖の本質を見る。つまり伽椰子は、「暗闇に対する恐怖」の実体化した存在として表出していたワケじゃあないですか。伽椰子の神出鬼没性に対して、清水崇はその根源的な成因を提示していると思うのであります。それは暗闇という身近な恐怖であると。

暗闇に対する曖昧な恐怖の感情が、過剰な実体化によって純視覚的に変換された存在として、伽椰子&俊雄が出現している。そう考えてみると、それは恐怖の映像であるのと同時に、一方では映像の喜びでもあると僕は思うワケです。


それでは、そもそも人はなぜ暗闇を怖がるのだろうか。

「本能的な~」とか「遺伝子レベルで~」とか「昔は猛獣が~」とか「危機回避としての~」とかよく聞くんだけど、僕はハッキリ言って「ふ~ん」ですね。確かにそうなのかもしれないけど、そんな昔の営みにピンと来るワケがないし、カーディガンズも歌っているように、そもそもreason will not lead to solutionじゃないですか。
僕には、『呪怨』という作品はこう言っているように思う。「そんな事より、よく分かんねーんだけど怖い暗闇をさ、イエーイっつってもっと怖くしてみね?www」と。

僕はそんな『呪怨』が大好きだし、その清々しいモチベーションが生み出した、キャラクターとしての伽椰子も俊雄もだ~いすき。カーディガンズも歌っているように、I can't care about anything but youという感じ。Say that you curse me☆
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