ケンヤム

勝手にしやがれのケンヤムのレビュー・感想・評価

勝手にしやがれ(1960年製作の映画)
4.8
「映画はすべてのもののアンサンブルでありうる。
映画は音楽と同じやり方で組み立てられた絵画である。
ただ単に見つめればいい。自分の見たものを寄せ集めればいい。」
ジャン=リュック=ゴダール


ゴダールは、映画という枠組みからの脱構築を目指した。
物語からの脱構築を目指した。
それは、映画という芸術の純度を高めていくという行為でもある。
ゴダールは、他にこんな言葉も残している。


「映画はブリコラージュであり、寄せ集めであり、あり合わせのアートだ」
まさにこの映画はそんな映画だ。
ただただ、街並みと男と女を写し続ける。
登場人物たちは、映画を通して人格的に統一された行動を取らない。
わかりやすくいうなら「優柔不断な登場人物」が、画面を縦横無尽に動き回るような映像が延々と続く。
ゆえに、鑑賞者は登場人物を捕まえきれない。
しかし、そこには強烈なノスタルジアを喚起される要素がふんだんに盛り込まれている。


私たちは、よくこんな言葉を使う。
「まるで映画のようにすべてが過ぎていった」
この言葉が証明しているのは、映画という芸術が、人間の記憶のシステムに強く影響を与えてきたということだ。
フィルムという記録装置の構造は、人間の記憶のシステムと酷似している。
また、強く影響を与えてきた。
だからこそ、私たちは映画の中で無限の時間を生きることができるし、その結果強烈なノスタルジアを刺激されて強く心を動かされる。


一生同じ人格で、同じ行動様式で動く人間などいない。
時には人を愛し、時には人を憎む。
それに対し、ハリウッド的な登場人物は、映画の中で一貫した人格と行動様式を持つ。
それに反抗したのが、ゴダールの映画なのだと思う。
「人間はもっと優柔不断だ。同時に映画も優柔不断でいい。」
ゴダールは、映画という芸術をそんな風に捉えていたのではないだろうか。
ハリウッドによって、構築された映画という芸術を、脱構築していく過程はどれだけ過酷なものだったか知れない。


ゴダールの映画に出てくる、どうしようもなく情けない男たちが私は好きだ。
そいつらを見るために、ゴダールの映画を見るといってもいい。
もっと情けなく、もっと優柔不断に。
人格的に一貫してる奴は不自由だ。
優柔不断こそ自由だ。
ゴダールの映画を見るとそんなことをいつも考える。



そんなこと言いながら、「気狂いピエロ」と「勝手にしやがれ」しか観たことない。笑
ケンヤム

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