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マイノリティ・リポートのnetfilmsのレビュー・感想・評価

マイノリティ・リポート(2002年製作の映画)
3.8
 2054年のワシントンD.C.。殺人予知システムのおかげで、殺人事件の存在しない社会。ところが犯罪予防局の犯罪取締チームの主任、ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)が、システムにより殺人事件の第一容疑者に挙げられてしまう。彼は自分が事件を起こすことになる36時間後までに、真実を暴かねばならなくなった。前作『A.I.』におけるSFというジャンルにおいての不完全燃焼を払拭した傑作。しかし当時映画館で初めて今作を観た時は戸惑いが隠せなかった。それは我々がこれまで長年馴れ親しんだスピルバーグの色調ではなかったのである。スピルバーグの40数年に及ぶフィルモグラフィにおいて、21世紀のスピルバーグは20世紀のスピルバーグとは完全に変容したと見てもいい。私はその変容のきっかけは彼自身ではなく、撮影監督のヤヌス・カミンスキーだと見ている。彼と初めてタッグを組んだ『シンドラーのリスト』以降、80年代のアレン・ダヴィオーやヴィルモス・ジグモンドと組んだ時の丸みを帯びた明るく柔らかい色調から、暗く滲んだ淡い色調へと変化していく。それはスピルバーグが光から陰へと自らの表現をシフトさせたと見てもいいだろう。かつてはヒューマニズムや平和やファンタジーの作家だったスピルバーグが、信じられないような陰鬱な物語へと舵を切ったのである。

今作の導入部分の20分くらいを観た時、私は真っ先にこれがスピルバーグによるものなのか疑ってしまった。この手の作品であれば、ポール・ヴァーホーヴェンやトニー・スコットがいるだろうし、何もスピルバーグが撮ることはないと思ったのである。西暦2054年のワシントンD.C.では、プリコグ(予言者)と呼ばれる3人の予知能力者たちで構成された殺人予知システムによって殺人を事前に感知し、犯罪を未然に防いでいた。このシステムの導入により、都市での犯罪件数は0件と大幅に回復を果たしている。ジョン・アンダートンはこのプロジェクトのリーダーを任されており、彼自身率先して事件の現場に足を運び、犯罪撲滅に活躍していた。この導入部分の役割分担や説明場面を観たところでは、どうしてこれをスピルバーグが映画化したのか理解に苦しんだ。

しかしジョン・アンダートンの暗部に触れたあたりからは、スピルバーグらしい緻密さと軽快さが同時進行する。彼がこのプロジェクトにのめり込むきっかけとなった出来事として、6年前の息子ショーンの誘拐事件が根深く残ることを明示した後、彼がドラッグ中毒の症状を有していることが示される。スピルバーグの映画における父親(両親)不在はこれまで何度も語ってきたが、ここでは息子の喪失感が事件への使命感につながっていることが明らかにされる。ある日、システムの全国規模での導入に対する国民投票が行われることとなり、司法省調査官のダニー・ウィットワー(コリン・ファレル)が局を訪れ、システムの完全性の調査が始まった。調査が行われる中、プリコグの一人アガサ(サマンサ・モートン)が突然ジョンに過去の事件の映像の断片を見せてくるのである。

プリコグは稀にこうした「エコー」と呼ばれる現象を起こすのだが、気になったジョンがその事件について調べると、アガサの予知の記録映像だけがそっくり削除されていた。ラマー・バージェス局長(マックス・フォン・シドー)にそのことを報告するが、結論は出なかった。後日、新たに殺人事件が予知されるが、そこには見ず知らずの他人であるリオ・クロウなる男を殺すジョンの姿が映っていた。何者かの罠だと感じたジョンはウィットワー達の追跡をかわし、システムの考案者であるアイリス・ハイネマン博士(ロイス・スミス)に助けを求めるが、彼女はシステムは偶然の発見から生まれたものであることを明かす。誰が自分に罠を仕掛けているのか?いったい誰が何のために?そこにミステリーの肝があり、組織のリーダーから一転して追われる身になったジョンと、組織の秘密を暴くこととジョンを逮捕することに執念を燃やすウィットワーとの知恵と知恵を駆使した消耗する頭脳戦が幕を開ける。

これまでのスピルバーグの映画にとって、アクション・スターらしいアクション・スターと言えばハリソン・フォードくらいしか思いつかないのだが、今作では初めてトム・クルーズを起用し、活劇としての新しさに挑戦している。中でも一番度肝を抜かれたのは、未来の高速道路上での車のボンネット渡りだろう。スピルバーグと言えばデビュー作『激突!』から一貫して走る車をオーソドックスに撮り、そのショットを短く繋ぐことで活劇性を高めてきた。しかし今作においてスピルバーグとヤヌス・カミンスキーは車を横から撮るのではなく、あえて縦から俯瞰で撮っているのである。高速道路の向かう先も最初は縦に流れていたものが、急に視点を変えて横へと向きを変える。このポイントのずらし方と活劇の描き方の斬新さに大いに魅了される。スピルバーグがショッピング・モールで撮影する日が訪れることをいったい誰が想像し得ただろうか?システムの操作系統を設計したルーファスのゲームパークの照明や色調などは明らかにスピルバーグの色味ではなく、ダーレン・アロノフスキーが好みそうな陳腐な色味なのである。今作におけるスピルバーグはあえてこのような陳腐な表現の中に果敢に潜り込み、若い世代のスタイルを模倣しながらも、スピルバーグにしか描けない緻密なミステリーを積み上げていく。中でも特筆すべきは眼球手術の場面の薄汚い美術造形だろう。前作『A.I.』の巨大な見世物小屋の場面でも感じたことだが、20世紀のスピルバーグなら絶対にやらなかったであろう細部のオンパレードにはまず「why?」が頭に浮かぶが、21世紀になっても挑戦をやめない大監督の姿にはただただ頭が下がる。

だが肝心の物語の核心は仕留め損なっている。ジョンはアガサの脳からマイノリティ・リポートを探るが、リポートは存在せず、アガサは代わりに再び過去の事件の映像を見せる。そして最後の手がかりであるクロウの部屋へと向かうが、そこには子供の写真が散らばっており、その中には息子ショーンの写真もあった。そこに現れたクロウがショーンを攫った犯人だと思ったジョンは、銃を突きつけるが、辛うじて思いとどまる。しかし、クロウは殺されないと家族に金が渡らないと、無理やり自分を撃たせた。クロウも何者かに利用されていたのだった。それでは事件の黒幕がいったい誰なのか?というのは蓋を開けてみれば陳腐以上の陳腐さである。そのことに気づくのはジョンではなく、彼と離婚以来疎遠になった元妻ララ(キャスリン・モリス)であったというのもあんまりと言えばあんまりであろう。クライマックスのパーティの場面でのあまりにも遅きに失したヒッチコックの手法へのオマージュにもびっくりさせられるが(平然とやっているポランスキーよりも遥かに狂っている)、それ以上に唖然とさせられたのはあまりにも牧歌的なラスト・ショットである。これがスピルバーグの映画だとしたら、クローネンバーグもカーペンターもヴァーホーヴェンもリンチも商売あがったりではないか 笑?様々な人類の歴史を描きながら、時にはこういう娯楽作を平然とやってのける。21世紀になってスピルバーグの作家性はますます厄介なことになって来たのである。
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