2024.07.31
(多分)予告を見て気になった作品。
日比合作で日本からは監督も務める結城貴史のほか、田辺桃子と尾野真千子も出演。
「dito」はタガログ語で“here”、「ここ」という意味。
母を亡くし、高校も辞めて、フィリピンのボクシングジムにいる父・神山英次を訪ねてきた桃子。
日本とフィリピンの暮らし、父娘の空白にある齟齬を埋めながら身を寄せ合う二人。
やがて2人は、それぞれの“居場所”を作るために戦い始める。
エッッモ〜いけどなっっが〜い。
2時間以上あったんじゃないかと錯覚するほど、良く言えば描写が丁寧で、作中で溜められるフラストレーションの正体がハッキリとしない展開が続いていた印象です。
その正体が分かって、カタルシスがここから発揮するぞ!と分かった時にはもう終盤も終盤。
個人的には終盤みたいな場面が満遍なくあるのを期待して鑑賞していました。
もしも日本とフィリピン、父と娘、ボクシングと家族の対比や、それらを淡々と描いていく日常劇を期待していたら、期待通りの良作か傑作だったのかもしれません。
しかしやはりボクシングを扱う作品となると、試合やそれに向けての練習、何かを犠牲にしてでも目の前の相手に勝つ、試合のその先にあるはずの何かを求める、本能的な姿を期待してしまいますよね。
終盤となるともう英次の物語が前面にバーンと出てくるのですが、それまでは桃子の物語だったんだと思います。
日本とフィリピンの価値観や経済規模の違いに戸惑いながらも、日本に帰るでも、英次の側を離れるでもない桃子。
その理由はきっと、明言されないまでも、ノスタルジックに描かれた過去の場面から推し量るに、生前の母と同じように、ボクシングをする父のことが嫌いになれず、好きでい続けたからなんだろうなと思いました。
英次のボクシングに対する想いは、同じジムにいるジョシュアとの対比で描かれていますね。
生きるためにボクシングをして、初めての敗北から続けることに恐怖し、ボクシングではなく家族と共にいることを選んだジョシュア。
そんな彼に対し英次は、家族と離れようと、試合が組まれなくてもボクシングを続ける。
ボクシングしか無いような英次が、桃子の居場所を作れるんだとしたらボクシングをするしか無く、桃子が自分の居場所を作るとしたら、それもやはりボクシングをする英次の側にしか無いんだということが伝わってきました。
終盤にあったボクシングシーン、邦画でも扱われることは多いですが、加減が難しいものなんじゃないかと思います。
テクニカルに描けば描くほど、深みは出るけど全く知らない人からしたらあまり入り込めず、シンプルに描けば描くほど、熱量や迫力が分かりやすく伝わってくるけど、単調に見えかねない。
今作は前者だったかと思います。
そのためか、上述のカタルシスを発揮しきれていなかった印象で、それも含めての作品のテーマだったのかと思いたいですが、ならせめて序盤中盤の場面はスッキリさせて欲しかった……。
きっと父親になってから観るととんでもなく感動するんだろうなぁ。
「dito」だと「ここ」ですが、大文字と小文字で分けると「DO it」=「やれ」ってことにもなるのでは??