緋里阿純

劇場版 チェンソーマン レゼ篇の緋里阿純のレビュー・感想・評価

4.8
《IMAXレーザー》2回、通常スクリーン1回の計3回鑑賞。
【イントロダクション】
“チェンソーの悪魔”から心臓を譲り受け、“チェンソーマン”になった主人公・デンジの活躍を描く、藤本タツキによる同名原作の劇場映画化。2022年のTVアニメ(以下、テレビ版)の続編、及び原作シリーズの「レゼ編」の映像化。
監督はテレビ版の中山竜に代わって、アニメ『ブラッククローバー』、『モンスター娘のいる日常』の吉原達矢。

【ストーリー】
デンジ(戸谷菊之介)や早川アキ(坂田将吾)が所属する公安対魔特異4課がサムライソードとの対決を終えて間もなく。

幼いデンジが暗い路地を歩いていると、その先で閉ざされた扉を目にする。扉の奥からポチタ(井澤詩織)の声がした気がしたデンジは、扉を開けようとするが、扉の奥からは「絶対に開けちゃダメだ」という声がする。

デンジが目を覚ますと、早川家のリビングで皆で雑魚寝しながら朝を迎えていた。すると、目を覚ましたパワー(ファイルーズあい)の頭の角が増えている事に気付く。

マキマ(楠木ともり)によると、パワーはサムライソードとの一件でゾンビの血を大量に摂取した事で悪魔に近付いており、血抜きをする為にデンジのバディを一時的に離脱する必要があるという。代わりにデンジのバディになったのは、チェンソーマンを異様に慕うビーム(花江夏樹)という鮫の魔人がバディとなる。

デンジはマキマに誘われ、休日に映画館デートで映画をハシゴをする事になる。どの作品もパッとせず、他の観客達のように感動出来ないデンジは、「俺に心ってあるのか?」と疑問を抱く。

デートによってマキマへの想いを一層募らせる中、突然の夕立に降られたデンジは、逃げ込んだ電話ボックスで同年代の少女・レゼ(上田麗奈)と出会う。

【感想】
私はアニメ勢。正確に言えば、原作はジャンプ本誌連載中に印象的な絵をチラホラ記憶している(まさに本作「レゼ篇」の花火のシーンや、『シャークネード』のパロディ演出回等)程度だったのだが、完結へのカウントダウンが始まった段階からは「異色の話題作がどういう結末を辿るのか?」が気になり、そこからは第1部のラストまでを読んで見届けた(なので、ラスボスが誰なのか、デンジが夢に見る路地裏の意味、物語としての着地は知っている)立場。
※本作鑑賞後、原作の第1部を読破し、どういったシーンが追加されたか等を確認した。

私は、本作を限りなく大絶賛したい(満点評価にしない・出来ないのは、本作は原作のその後の展開を知っていた方が楽しめるという、暗示や伏線の要素もアニメオリジナル描写として追加しており、本作を十分に楽しむには、原作の展開を知っている必要がある為。その他の要素は後述)。原作でも屈指の人気エピソードだからと言うのもあるだろうが、シンプルに1本の映画として本作は「面白い‼︎」のだ。

それもそのはず、後半のアクションシーンこそ作者の好きなB級映画テイスト全開の荒唐無稽なアクションを展開しつつも、本作の根底にあるのは16歳のデンジの「初恋と失恋」という少年漫画の王道展開を描いているのだから。何故、初恋と銘打つかと言うと、個人的にデンジのマキマさんに対する思いは、「恋」というよりも歳上のお姉さんに対する「憧れ」や「アイドル視」に近い感情だと捉えており(少なくとも、本作中時点では)、本作でレゼに対して抱く思いこそが年相応の「恋心」なのではないかと思ったからだ。
マキマさんは既に公安のエリートで、収入や生活も安定しており、知識や教養も豊富で「自立した女性」である。
それに対して、レゼはデンジと近しい「持たざる者」という立場にある。だからこそ、彼女はデンジと触れ合う中で、任務を超えた感情を密かに抱いていたのではないかと思う。デンジの問い掛ける「何で出会った時に殺さなかったのか?」に対する答えも、「私も学校いった事なかったの」という台詞に集約される「生まれて初めて手にした自由を楽しみたい。誰かと同じ時間を共有したい」という願望故だったのだろうと思う。

そして、マキマとレゼという2人の女性の間で揺れ動きつつも、ラストでデンジは「レゼとの未来」を選択する。それは、作中に登場する“都会のネズミと田舎のネズミ”の話でいう“田舎のネズミ”になるという事だ。あれほどマキマに対して強い憧れを抱き、都会の生活に満足していたデンジが、全てを投げ出す覚悟でレゼを迎えに行ったのだ。早朝、これまでの公安勤務で稼いだ全財産を持ち出し、静かに早川家を後にする際のニャーコに手を振る姿が切ない。

対するレゼは、一度は新幹線で街を離れようとするも、募金の際に手渡された“赤い花”を見つめ、デンジが初めて会った時に渡してくれた“白い花”を思い出したかのように、デンジの待つカフェ二道へと走る。しかし、あと数十mという所で、全てを把握していたマキマによって命を絶たれる事になってしまう。マキマの事だから、逃亡先にまで追って後始末をつけた可能性はあるが、少なくともあそこで逃げていればその日のうちに殺害される事はなかったかもしれない。ましてや、レゼはデンジとの戦闘で、彼の飼い主がマキマである事を知っていた筈なのに。

皮肉なのは、“都会のネズミ"にしろ“田舎のネズミ”にしろ、ネズミという人間に駆除されるべき害獣な事に変わりはない事。マキマが友達の手伝いで田舎の農作業を手伝う際、畑のネズミを見つけて犬に噛み殺してもらうと語っていた。まさにこれから目の前で行われようとしている事と重なり、そもそも自らを“ネズミ”に例えて考えてしまっている時点で“詰み”なのである。

そんなレゼの最期の姿を、デンジは知る事はない。覚悟を決め、花束を手に二道でいつまでも待ち続ける姿が切ない。血抜きを終えたパワーの登場で、一応はコミカルな着地を見せるが、カメラが店の外の路地に引いていく様は、冒頭のデンジの夢と重なる。路地を進んで行った先で始まった物語は、路地を下がる事で幕を閉じる。先の展開を思うと、非常に不穏で美しい幕引きだ。

これは2回目の鑑賞で気付いた事だが、デンジは「俺が知り合う女が、全員俺のこと殺そうとしてくるんだけど!皆チェンソーマンの心臓が欲しいんですか!?デンジの心臓は欲しくないんですか!」と叫んでいたが、打ち上げ花火の襲撃の際、レゼは「ごめんね、痛いね。デンジ君の心臓貰うね」と、“デンジの心臓”と呼んでいる。
思い返せば、レゼは終始、デンジという人間と向き合って戦っていたのだろう。レゼは年相応の優しい女の子でもあったのだ。それは、小冊子における藤本先生の発言でも触れられているし、作中「あまり人殺しはしたくない」と、あくまで任務だから仕方なしと強調している。
そして、大惨事を引き起こし、任務に失敗し、最早逃げるしかないレゼに対して、デンジは「一緒に逃げね?」「俺はまだ好きだし」と提案する。初めて花をくれた男の子、初めて学校ごっこをしてくれた男の子、初めてお祭デートをしてくれた男の子、そして、全てを捨ててでも「一緒に逃げよう」と言ってくれた男の子。レゼにとって、あの瞬間のデンジの優しさがどれほど嬉しかった事だろうか。そう考えると、デンジに対してのレゼの突き放すような言動も行動も、デンジを危険に晒すまいとする優しさだったのではないかとすら思えて仕方ない。

デンジの年相応な恋心と、蠱惑的なレゼの魅力の化学反応の凄さはいつまで語っても尽きないが、そんな2人を演じた戸谷菊之介さんと上田麗奈さんの演技にも惜しみない拍手を送りたい。特に、上田麗奈さんの演技はボムになってからの演技も素晴らしく、あれほど恐ろしい相手のはずなのに、何処か可愛らしく見えてしまい、「そりゃ、デンジもあれだけの事があっても好きでい続けるよね」という説得力を生み出していた。
そして、ラストの「私も学校いった事なかったの」である。

影の功労者、いや目立ちっぷりは間違いなく本作随一であったが、ビームの活躍ぶりもはずせない。『シャークネード』ネタの馬鹿馬鹿しさを全力で表現し、馬の鳴き声まで発する健気な忠鮫っぷりである。
というか、ビームの耐久値高過ぎでは?(笑)デンジが紙耐久なのか、ビームが神耐久なのか、デンジと遜色ないレベルのボムの爆撃、決着前の拳のラッシュを食らって、尚も海に沈んだデンジとレゼを浜まで引き上げる(小冊子に藤本先生による回答あり)とは、暴力の魔人と同じくお前も魔人化しても弱体化していないのでは?と勘繰りたくなる。

【スタッフ陣の気合い十分な表現の数々】
デンジをはじめとしたキャラクター表現も原作のタッチにより近付いた印象があり、特にギャグパートのコミカルさはより引き立つようになったと思う。キャラクターデザインの杉山和隆氏によると、やはりより原作に近付けるべくブラッシュアップしたそう。

細かい点だが、デンジとレゼが台風で学校に足止めされた際、廊下を歩くレゼの影の表現が、ボムになった際の前傾気味の姿勢と重なって見えてゾクりとした。

デンジ&ビームvs.ボム&台風の悪魔によるアクションシーンの迫力は、劇場の大スクリーンで堪能してこその圧巻の出来である。元ネタの『シャークネード』(2013)の荒唐無稽さを超えているのではないだろうか?
とはいえ、特に台風の悪魔戦だが、原作ではたった2話で決着した勝負を盛りに盛った結果、少々バトルシーン全体が若干間延びしてしまった印象もあり、レゼの発する「まだやるの?」という台詞と重なってしまっていたようにも思う。また、バトルシーンを盛った結果、「台風の悪魔戦中、邪魔するでもなくレゼは何してたの?」という疑問が生じもしてしまうのは残念。

米津玄師によるオープニング曲『IRIS OUT』と、宇多田ヒカルを迎えたエンディングのコラボ曲『JANE DOE』も素晴らしい。あの『KICK BACK』に匹敵する曲を引っ提げて劇場版にカムバックしてくるとは、米津玄師恐るべしである。
そんなオープニング曲に合わせて展開されるアニメーションも素晴らしく、特に、本編では出番がないポチタによるダンスシーンの可愛さが堪らなかった。

また、劇中歌のマキシマム ザ ホルモンによる『刃渡り2億センチ(全体推定70%解禁edit)』は、後半のアクションシーンの開幕として抜群の存在感を放つ。これまで、2番の歌詞がレゼの事を歌っているからという理由でTVsize以上の内容が隠されてきた本楽曲だが、早くfull sizeで聴きたくて仕方なくなった。

音楽を担当した牛尾憲輔氏の劇伴も、作曲センスは勿論、劇場版という事もあって盛り上げ所でガンガン鳴らす演出も作風とマッチしていた。それとは対照的に、夜の学校でのプールのシーンでの美しい劇伴も印象的。

主題歌や劇中歌アーティストに音楽監督と、本作は音楽の果たした役割も非常に大きかったと思う。

そして、忘れてはならないのが、背景美術の圧倒的な美しさだ。テレビ版でもそれは顕著だったが、本作でもデンジとレゼが親密になっていくカフェ二道の空気感、謎の男がチェンソーマンの心臓を求めて動き出す部屋、夜の学校とプール、お祭と打ち上げ花火と、あらゆる場面の背景が美しく、作品の質を更に一段上げている。

【実は本作こそ、中山竜監督向きだったのでは?】
個人的には、賛否両論を巻き起こした中山竜監督による実写映画的な演出、特にアキのモーニングルーティン等、アニメ化に際して追加されたシーンも好印象を抱いており、中山版も十分楽しむ事が出来た(ただし、台詞の改変や声優への演技指導等、原作ファンから叩かれても仕方ない部分も往々にしてあるとは思う)側だ。
そして、本作の鑑賞前に吉原達矢監督による「原作の雰囲気を忠実に再現する事」に重きを置いた『総集編』でストーリーの復習をして、本作の鑑賞に臨んだ。
なので、私は両監督がそれぞれの思いで描いた『チェンソーマン』というアニメ作品を両方楽しめたわけだ。

という前置きをした上で、これはアニメ版を批判していた人々からは多分に顰蹙を買いそうではあるが、敢えて恐れずに言うならば、本作『レゼ篇』こそ中山監督が監督すべき作品だったよう思う。少なくとも、レゼが正体を表すまでの青春恋愛映画的な日常シーンは、中山監督がテレビアニメでやった実写を意識した演出が活きる部分が多々あったのではないかと思う。マキマとの映画デートや、レゼとの夜の学校、お祭と花火のシーン等。特に、デンジがレゼに惚れていく姿は、映像化の際に補完すべき最重要部分だったのではないかと思う。原作準拠なのだとしても、デンジがトントン拍子でレゼに惚れ込んでいく姿は(先に憧れを寄せていたマキマへの強烈な想いの間で苦悩するからこそ余計に)、展開として「早過ぎる」と感じてしまった。
※2回目の鑑賞では、それ程ではなかったが、やはりもう少しデンジとレゼのやり取りを見ていたかった。それ程までに、私がこの2人に魅了された証とも言えるが。

少し話が逸れるが、私は以前、少年ジャンプの編集者に「漫画」と「映画(その他、映像作品全般)」の違いは、“コマ数”と“尺”だと言われた。映像作品なら、キャラクターのしぐさや心の変化をじっくり描く事が可能であるが、漫画では限られたコマ数とページ数で読者に伝わるように端的に表現しなければならない。恐らく、藤本先生もその週毎のコマ数やページ配分を考慮して端的に表現した部分は多々あるはずだ。そして、映像化である本作は、そうした“零れ落ちた部分”を補完するまたとないチャンスだったはずなのだ。

そして、『レゼ篇』のような序盤に大真面目に青春恋愛映画のノリをやる作品を補完する際にこそ、中山監督の演出はマッチしたのかもしれない。まるで別作品かのように大真面目に青春恋愛映画をやるという演出も、レゼの正体が発覚する後半で一気にB級スプラッターホラーに転調するこの章ならば、化学反応が見られたかもしれないとも思うのだ。

ただし、中山監督のインタビューでの発言等、原作ファンからの顰蹙に火に油を注いだ結果があったからこそ、吉原監督達は慎重になって原作を忠実に再現せざるを得なくなってしまったのも確かだ。パンフレットのスタッフインタビューに目を通すと、吉原監督と中園真登副監督達は、原作のテンポ感を崩さないように細心の注意を払い、再三ディレクションを行ったという。つまり、「原作ファンを怒らせないよう、余計な事はするな」と、およそ他の現場では考えられない程神経質になっていたのだろう。

本来、あの騒動がなければ、そうした補完が行われていた可能性は十分にあった。
例えば、デンジがマキマとのデートが楽しみ過ぎて夜間眠れず、堪らず早朝に家を出るシーンを差し込んでデンジの有頂天な気持ちをより印象付けたり、レゼと夜間の学校のフェンスをよじ登って侵入し、共犯者感覚を共有する等だ。デンジがレゼに惚れ込んでいく姿も、例えばカフェ“二道”に1週間連続で通う姿を台詞は無くとも簡単なダイジェスト映像でコミカルに見せても面白かったかもしれない。
それは、ほんの1シーン2シーン、ほんの2〜3分で済む。アクションシーンに割いた尺を、少しこちらに分け与える(全体で100分という尺はベストだったと思うので)だけでも、少しばかりは要素を足しても良かったと思うのだ。他の原作ありのアニメ化作品ならば、そうした補完は当然のものとして行われているからだろうが、何処か唐突な印象を抱いたのは間違いない。

しかし、恐らく製作側もそれは分かっていたのではないだろうかと思う。だからこそ、オープニング映像で賑やかな早川家とマキマのモーニングを対比させ、僅かばかりでもデンジ達の生活風景を描写見せたのだ。オープニングのスタッフクレジットという、必要な部分にそうした映像を挟み込む事で、ファンから顰蹙を買わずにせめてもの日常シーンを追加したのかもしれない。

ただし、中盤以降のバトルシーンに関しては、特に台風の悪魔との対決で顕著な崩した絵の連続による勢いのあるアクションは評価されるだろうと思い、そういう意味では本作の監督は吉原監督で正解だとも思う。アクションシーンならば「これでもか!」という程補強しまくり、シーンを追加しようともファンからの顰蹙は買いづらく、寧ろ歓迎されるくらいだからだ。
個人的には、テレビ版のような丁寧な作画(他にも、『鬼滅の刃』のような)によるアクションの積み重ねの方が好みではあるのだが、そもそもの原作が荒々しくスピード感のあるタッチでテンポ良く描かれているので、ファンにとっても作品にとっても、正解としてはこちらなのだろうなと思いはする。
とはいえ、本作は少々激しすぎ、崩しすぎていて「何が起こっているのか分かりづらい」瞬間もあったのは確かだ。

長くなったが、早い話、前半を中山監督、後半を吉原監督で製作してみてほしかったというのが正直な感覚だ。土台無理な話ではあるが、鑑賞後に本作について反芻する中で「両監督の強みを存分に活かした『レゼ篇』を、ちょっと見てみたいかも」という感覚を覚えたので。

【総評】
原作の空気感を忠実に、しかし映像美は日本トップクラスのスタジオによって圧巻のクオリティで再構築された『レゼ篇』は、たとえ初見だとしても劇場に足を運ぶ価値が十二分にある素晴らしい一作だった。
『名探偵コナン』『鬼滅の刃』、そして『チェンソーマン』と、今年はクオリティの高いアニメ作品によって東宝がバカ勝ちする1年となり、改めて日本のアニメーション技術と人気の高さを痛感する。

余談だが、パンフレットと入場者特典の小冊子、両方に目を通した立場としては、パンフレットでは出演陣はじめスタッフ陣の本作に対する姿勢が、小冊子は藤本先生による『レゼ篇』の連載時の製作秘話や一問一答と、両方を読み解く事で更に理解が深まる作りになっている。個人的には、作家のパーソナルな部分に踏み込んだ小冊子の方が読み応えがあったが、パンフレットもカバーの仕掛け含め力の入った出来なのでオススメしたい。
緋里阿純

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