映画撮るのうま
・少女の父親なのだろうか、馬に乗る少女が、男性に画面左へ引っ張られるのを拒んでいる、というオープニング。エイダ(ホリー・ハンター)は右方向へ駆け出し、カメラも滑らかに追いかける。ローラースケートに乗った運動は、再婚相手(サム・ニール)の住む島に上陸したところで止まり、彼女を改めて左方向へ引っ張っていく。島の地面はぬかるみ、何度も足を取られる。夫の怒りが頂点に達する丘のシーンも、娘は夫の待つ左方向へ延々と登っていく。荒涼とした丘と木の柵の風景はドライヤー映画のようだった。
家父長制とマチズモに妻が苦しむ話になりそうなところ、妻が主体性を持って男同士のパワーバランスを突き崩す展開に持っていくのが流石ジェーン・カンピオンだ。ピアノを弾くシーンが、視覚優位の男の世界から離れた、彼女の内面を掘り下げる物語的な意味と、男が欲望する女性の貨幣的な立場、それすら俯瞰して立ち回るエイダのしたたかさを同時に描いていて演出うっま…と思った。
エイダにとっても多くのリスクを背負ったギリギリの駆け引きな訳で、三角関係を娘の良心が崩壊させる(娘は再婚相手にわりと懐いていた)のも、人物配置が絶妙すぎる。
・左右の衝突の先、男の所有欲から逃れ、島を脱出する彼女は、ピアノという棺桶を葬る決断をする。過去の重みに引っ張られて落下するが、あるアクションで抜け出す。ローラースケートを付けたまま眠りにつき、他人に切り離してもらっていた冒頭と綺麗な対比を作る。ぬかるんだ足元をやたら映してたのもそういうことか〜と思った。
・エイダとベインズ(ハーヴェイ・カイテル)のエロレッスンを、小屋に開いた穴から見るシーン。欲望の対象として客体化された女性の姿と言えなくもないが、そもそもこの映画は「指の間から世界を覗き見るエイダの主観」で始まっており、女性側に主体に置きながら、男女の関係の逆転が繰り返し描かれている。
・結構笑える場面も多くて、妻の寝取られを覗き見るサムニールの指を犬がぺろぺろ舐めるくだり、シチュエーションは突飛なのにこれ最悪だろうな…としっかり伝わってくる演出だった