喋る美術品、当事者目線を地で行くドキュメンタリー──東京国際映画祭2024ワールド・フォーカス部門。有楽町よみうりホールで観たんですが、前の席の人の毛量が多くて、鑑賞は困難を極めました!英語字幕が下に、日本語字幕が右に出る映画祭仕様はこういう時にありがたいってことを知る。私もわりと背が高いほうだから、傾斜の小さい映画館だと後ろの人の視界を遮ったりしてるかもしれない。映画館で目の前の席にカンフーシューズを履いて「BOKU HA TANOSII」というブランドのトップスを着ている人が座っていたらたぶん私だから、邪魔だったら遠慮せずに肩叩いて教えてほしい。そしたら深めに腰掛けるので。ほとんど最後列にしか座らないからレアケースだと思うけど。
フランスがダホメ王国から略奪した美術品の一部(7,000点以上あるうちの26点だけなので本当に一部)がベナン共和国に返還される過程を題材にしたドキュメンタリー。ヤバいのが本作、美術品が喋るのだ。事前に知ってたから驚いたわけじゃないんだけど、実際に観ると相当ヤバい。
「わたしは26番。24でも25でもなく。」みたいな美術品一人称視点のモノローグから始まるんである。当事者目線を地で行くドキュメンタリーなのだ。
美術品が喋るのはもちろんふざけた演出ではなく、なぜかっていうとこの『ダホメ』は「奪われた美術品があるべきところに返される」という論理に依拠していないからだ。観客をその先入観から一旦遠ざけて複数の視点を持たせる場として、ベナンの大学で学生たちが美術品の返還について議論する様子が映し出される。喜ばしい第一歩という声もあれば、管理ノウハウに懐疑的という声も、マクロンのイメージ戦略だという声も、様々な意見が噴出する。考えてみればそもそも美術品にとって「あるべきところ」が存在するのかということ自体怪しいものだ。国民にとってはアイデンティティの一端を担う大切な文化遺産だが、別に文化遺産となるべくして生み落とされたわけではないのだから。
美術品の一人称視点はもうひとつ、限定空間から徐々に視野を広げていくためのスタート地点としても適切な置きどころを掴みとっている。美術品が丁寧に梱包されて木の箱に入れられる瞬間、カメラも美術品の視点で箱の中に置かれ、箱に蓋が被せられると画面は暗闇となり、ビスを止める鈍い音が響く。空輸された箱はベナンに着くと再び開封され、カメラは展示場所となる官邸、言論空間としての大学、芸術を享受する権利を持つ市民が暮らす街角を順に映しながら、次第に射程を広げていく。
美術品が喋るという奇抜な演出が想像以上に正当なアプローチとして体感させられた。ベルリン金熊も納得の素晴らしいドキュメンタリーでした。