殺人鬼視点での、犯人とバレるかバレないかのサスペンスという観点だけ抜き出すと、ヒッチコックの偉大な「フレンジー」の中盤を思わせる。
映画全体を通して視点が殺人鬼→歌手→妻→殺人鬼と移り変わっていくわけだが、このツイストも「フレンジー」を踏襲してるように思える。しかしながら、本作においてはこの視点の変化がサスペンス性を中途半端に弱めていると思う。
本作のウィークポイントとしては、ジョシュ・ハートネットの"怖さ"或いは"弱さ"を十分に演出できていない部分が挙げられる。劇中では階段から人を突き落とす程度で誰1人実際には殺していないのだから、いくら殺人鬼だと台詞で言われてもまるで響いてこないのだ(まあこれはシャマラン本人の優しさの表れでもあるのだろう)。普通にシャマラン娘の顔の方がAIっぽくて怖かったのだが。
といって弱く描かれているかといえば、案外頭も切れるし警察の包囲網から神懸かり的な脱出を成功させたりもするので、NO。つまり中途半端に思えてしまう。アンチヒーローものにすらなっていないのはどうだろうか。
また、ライブ会場と通路の行き来を編集で毎回カットしているが、シームレスな移動の描写が無いことにより、コンサート終了までの差し迫るタイムリミットへの焦燥など、その臨場感を大きく損なっているのではないか。一度アリーナ級のライブへ行ったことのある人間なら分かると思うが、通路からライブ会場へ入った瞬間に本当に空気が変わるのだ。その空間的変化を掴み損ねている時点で本作はかなり辛い。
相変わらず他の監督が思いついてもやらないような、シャマランにしか撮れない変な映画ではあるので、このままブレずに頑張ってほしいとは思う。
皆さん「フレンジー」は必修科目レベルの傑作なので観ましょうね。