松井の天井直撃ホームラン

朽ちないサクラの松井の天井直撃ホームランのレビュー・感想・評価

朽ちないサクラ(2024年製作の映画)
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☆☆☆★★

原作読了済み。簡単な感想で。


原作を読み終えた瞬間に考える…

これ?映画を観に来た観客は、納得をして帰るのだろうか…と。
一応、原作には続編(未読)が有るには有るので、その辺りは原作者のファンならばお見通しなのでしょうが。


【朽ちない】
読み方:くちない
タ行上一段活用の動詞「朽ちる」の未然形である「朽ち」に、打消の助動詞「ない」が付いた形。
(日本語活用形辞書 辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書)


【朽ちる】
読み方:くちる
[動タ上一][文]く・つ[タ上二]
1 腐って形がくずれたりぼろぼろになったりする。「—・ちて今にも壊れそうな廃屋」
2 評判が衰えてしまう。すたれる。「今なお—・ちることのない名声」
3 むなしく人生を終える。「世に出ることもなく—・ちる」
(デジタル大辞泉/小学館より)


《絶望の淵から一筋の光明は光り輝くのか?》


馬鹿を承知ノ助で書きますが。ダルデンヌ兄弟作品では、絶望感に打ちひしがれた主人公に、一筋の光明が降り注ぎ感動を呼ぶラストシーンが描かれる。
この『朽ちないサクラ』の原作・映像化共に、ラストシーンでもその様な描かれ方をされる。

…のだが、、、

その【希望】は儚く散る未来しか浮かばない…とゆう悲しさしか湧かない。
残念ながら、ダルデンヌ兄弟作品の様な、感動に包まれた状態での鑑賞後の余韻とは程遠い。
所詮は、中途採用の事務員が、本採用されたとしても。国の機関と同等の立場に至るのは、あり得ないのだから。

…と、書くと「そんな事は当たり前だろ!原作者はそれを分かって書いてんだよ!」
との意見が出るでしょう。
それに対しては「こちらも承知ノ助ですよ!」…と言うしか無いっスけどね。

、、、、ちょっと無理筋が強すぎる内容だったでしょうかね〜!

そんな要因として…

泉→泉&磯川→磯川→冨樫/梶山→泉
と。
原作自体の目線がコロコロと変わって行くところにも起因しているのかも知れないと感じました。
特に、最終章での泉の推理から真相に迫る内容だけに。その前まで描かれる冨樫/梶山編が(真相に繋がるだけに)大事なのは、心底分かるのだけれども。その後の真相が明らかになるに連れ、「なんだかなあ〜」状態をどうしても感じてしまう。

原作だと、公安の存在は終盤までなるべく伏せる感じだったのですが。
映像化では映画の始まり辺りから「公安!公安!」と、何度も言い切っていては。どうしても観客側が身構えてしまい、「何か有るな!」…と感じてしまうだけに。最後の(どんでん返しと言えるのか?は分からないですが)衝撃度はそれ程は感じないだろうなあ〜…と。


「少しずつ前に進んで行かないとな」

この言葉は、原作にも書かれていたと思いますが。
それと同時に、、、、

「1人の犠牲より100人の命が大事だ!」

…と、【男】は言う。
(原作だと百瀬も殺されているので実際に犠牲は2人)

映画を観た観客から見ると。所詮は、自身の身の保身と出世欲の塊な男の言葉でしか無いので、どうしても観ていても何も感じはしない。
勿論【男】を、映画を面白くさせる為の《悪役》として描いている訳ですが。

そう感じてしまうのには。原作だと描かれてはいない殺人場面を、映像化では普通に描いている事も有るのかも知れない。
原作の終盤で泉が【男】に対し、自分の推理を披露すると。【男】はドスを効かせた声で…

「証拠は何一つ無い!」…と凄む。

殺人を映像で見せてしまう事で、この一言の凄みは薄まってしまっている感を強く感じてしまう。
原作では、百瀬も殺されているので。2人の殺人場面はおろか、浅羽も死んでいる(おそらく公安の仕業で)事が公安の不気味さを際立たせる。

…とは言えども。原作自体も、途中から急に(明らかに)オウム真理教をモデルにした様なカルト宗教の関連性を持ち出したりしているのが、読んで行きながら「一体どうなるんだよコレ!」…と思ってしまったのでした。



警察内部の中での百瀬と杉林(映像化では登場しない)不倫関係は、辺見へと変更され?ご存じの通りに、映像化では単なる自殺。
(原作では【男】の野望の為に殺される)


「この件には、なにか裏があるような気がする」

と言っていた千佳の言葉は…

「後でちゃんと謝ってよね!」に。


また、磯川が辺見に詰め寄った際に…

「世の中には、知らない方がいいこともある」

と言った辺見の言葉は…

「警察官ってなんなんだろうな!」に…と。

細かな変更点は多い。

そんな変更点の中で一瞬だけ面白いと思ったのは、おみくじを利用した和歌でした。

ストーカー男を、まるで隠れキリシタンの様な設定にしたのは、ちょっとだけ意外ではありました。
その和歌から千佳が【男】に近づいてしまった設定は、《有り》とは思うのですが。でも原作・映像化共にどちらも最初に【サクラ】の意味を言っちゃっているので、一切驚きには繋がっては居ない、、、って言う。

等と、映像化に対して色々と貶しつつ。ここはやはり、原作の駄目なところも言わざるを得ないなあ〜と。

↑に記した通りに。構成に関しては、読みながらどうしても違和感を感じてしまうところではありました。
それと同時に。映像化では、Nシステム等。警察機構の捜査状況を少しだけではありましたが描いていて。ほぼ納得の行く描き方だったのですが。
原作だと、ほとんど素人捜査官と言っても良い泉と磯川の2人で。警察捜査が及ばない部分まで踏み込んでは、徐々に真相に近づいて行く。
幾ら物語だから…とは言え、結果的に素人捜査官以下の警察機構って、、、と。流石に小説とは言え、それは余りにも都合が良すぎるだろ!…としか。
更には、真相へと辿り着いた理由もまた然り。

だからか?映像化ではトントン拍子にストーリーは進んで行き。当初の20分程でいきなり原作の終盤辺りまで辿り着いていた。
映画は、そこからまた原作の中盤あたりまで戻り、そこからカルト集団の映像を挟んだりしながら尺を埋めて行く。
(厳密に言うと、原作にはカルト集団は登場しない)

そうでもしないと。原作自体の、カルト宗教を持ち出したりする唐突さでの内容の薄さをカバーしきれない…と思ったのでしようか?
尤も、そんなカルト集団を映像で表現してしまったがゆえに。映像化自体が薄っぺらいモノになってしまった感もまた強く感じるところではありましたが。


ところで、これだけ貶したら俺…公安?ホリプロ?からマークされちゃうんかな?


2024年6月22日 TOHOシネマズ錦糸町オリナス/スクリーン5



〓毎回堪能させて貰っている杉咲花の演技。
初めて彼女を認識し「とんでもない女優が現れた!」…と感じた『トイレのピエタ』以降。
彼女の一挙手一投足に唸る事が多いのですが。
今回の彼女の演技について、おそらくですが演技指導に於ける段階で…

「こうして欲しい!こうゆう表情が/この首の向きで、、、」等。

おそらくは、細かな注文が多くあったのだろう?と、ゆうのが分かる。
でもどうだろうなあ〜!
そんな一つ一つの表現が観ていて、、、
「いやいや!無二の親友が死んだと知ったその瞬間にその表情は無いんじゃ、、、」等と、生意気にも少し思ったりも…
勿論、それ以外の部分では彼女の素晴らしさは分かっていますので「はい!」
(彼女が何度も言う、この「はい!」が好きなんです)