プリオ

ルックバックのプリオのレビュー・感想・評価

ルックバック(2024年製作の映画)
5.0
映画館を出た後、ものすごい余韻。
僅か1時間でここまで心が動かされて、気分や世界が変わるのか。
映画や創作物の力を感じる作品です。
これからもずっと胸の中で残り続けると思います。

結論、最高。
ここまで泣いたのは、初めてかもしれない。
今まででトップクラスに泣きました。
本当の感動とは、泣くこともできないというが、そういう意味では既存の感情をなぞられただけなのかもしれないが、それもそのはず、今作は描くことをテーマにした物語であり、その日常や夢への道筋は、自分とも大きく通じるものがあった。

映画が始まって5分も経たないうちに込み上げるものがあり、もう前半パートで蛇口がゆるゆる状態になってしまう始末だった。席のあちらこちらから鼻水を啜る音もした。でも僕はそれに対抗するかのように鼻水も涙も拭かなかった。ただ静かに嗚咽していた。いや、ここまで胸が苦しくなった経験も久々で自分でも驚きました。

まぁ、どれくらい泣けた映画なのか語るのもなんだか下品なので、次の話を。

この映画は、どことなく「君の名は」を初めて見た時に抱いた感覚と近い気がした。

その大きな共通点としては、「ここまでアニメで感動できるのか」という点だが、アニメの歴史を変えるような一つの映画としてのパワーもそうだし、最後の余韻も似たようなものを感じた。

ただ「君の名は」と大きく違う点がある。それは、その発明的で斬新な統一感のない画だろう。AIには出せない手描きな感じ。決して一般的な綺麗な絵ではないんだが、それが味があって良かった。これからのアニメーションが今作に続くかは分からないが、統一感のあるただ綺麗な画だけで勝負するのは、少し難しくなるのではと感じた。

そしてAIと人間の差別化を図れるとしたら、ここなのでは、と思った。人間が描いてることが伝わってくる感じ、そのエネルギー、いわゆる「人間臭さ」がこれからはニーズになってくるような気がした。

また他にも、琴線に触れてくる美しい音楽、夢や才能という普遍的なテーマ性など、様々な点で素晴らしいものがありました。

そしてついに見つかってしまった、今作の音楽を担当しているハルカナカムラさん。彼の才能が世間に知られてしまった喜びと悲しみ。いや、自分もそんな昔からのファンというわけではないが、毎日聴くレベルに好きなので、世間に認知されたことに一抹の寂しさを勝手に抱いております。なんだろう、この感覚。支配的なのかな、自分。。。

まぁそうやって普段聞いている音楽家の曲がふんだんに使われていることもあって、感動できたというのもあると思う。今作における彼の音楽の貢献度は非常に大きく、正直もう音楽だけで、泣けてきてしまう程だった。

また1時間という上映時間、キャラの成長変化、説明を省いた画で魅せる漫画的展開、それらが違和感なく流れるように入ってきたのも、シーンの繋ぎが上手いのもあるが、ハルカナカムラさんの音楽の効果によるところが大きいだろう。

また音楽の他にも、今作がここまで胸を打つ理由としては、"誰しも経験したことがあること"を描いているからだろう。

誰しも夢を抱いたことがあるだろう。漫画家になりたい、アイドルになりたい、漫才師になりたい。
そしてその過程で自分より才能があるものと出会い、対抗意識を抱いたこともあるだろう。あるいは自分の限界を思い知り挫折したこともあるだろう。
夢を諦めてしまった者、夢を未だ追いかけている者もいると思う。

今作の主人公である藤野は、京本と自分を比較し周囲の評価を気にしてしまうことで、自分の才能が平凡に思えてしまい漫画を描くことを諦める。

でも藤野にしか描けないものもあるわけで、それがその人の魅力や才能であるわけで、そのことを挫折する理由となった京本によって気づかされたとき、彼女は歓喜の走りを見せるのだ。

この雨の田んぼ道での藤野の走りは、ものすごい印象的だったし、めちゃくちゃ好きなシーンだ。コンプレックスの源であり漫画を描くのを諦めるきっかけとなった人物に、漫画の才能を認められたことは、藤野にとってはこれ以上ない賛美なわけで、耐え難い喜びだったに違いない。でも藤野は「雨降ってきたから、帰るね」と感情を押し殺してカッコつける。そしてそこからの彼女の走りだ。絵も段々と荒々しいタッチになり、腕もこれ以上な振り回し、もう走っているのか踊っているのか分からないような動きを魅せるのだ。その身体動作はこれぞまさに"表現"という感じだ。体から湧き上がる感情を全身で表現している藤野の様は言葉をなくす程に美しかった。

またこのシーンは、晴れでもいいはずなのに雨なのもよく出来た伏線になっている。藤野と京本が漫画家という夢を追いかけていく様はキラキラしているわけだが、その過程の背景は曇りや雨や雪が多くどこか暗いのは、出会いの残酷な側面や未来で待ち受けている悲惨な出来事の暗示だろう。

また出会いや夢の影の部分だけでなく、今作は創作における表裏一体としてのポジティブとネガティヴな側面を描いていると思う。

創作者なら誰しも抱いたことがある葛藤が描かれている作品とも言えるだろう。

それは自分の描いたものが善かれ悪かれ影響を与えてしまうことへの恐怖心、自分の作品が他人を不幸にしてしまったことへの罪悪感、などだ。

そして今作は藤本タツキ先生がそんな葛藤を解消するために、自分への救済を目的として描いた物語なんだとも思う。

世間に対するテーマとかメッセージを押し出した作品というより、自分を救うために描いたが、それに付随して自然と人々を救うことになるようなタイプの作品だと思う。

また今作は創作活動をしたことがある人間の方が感情移入し易いだろうが、描かれている苦悩は普遍的でどんな人にも当てはまるものだ。

「なぜ描いてるの?」という京本の問いかけは、「なぜ書いての?」「なぜ働いてるの?」「なぜ生きてるの?」など、いろいろと各々で言い換えができるだろう。

これは今を生きる僕たちの応援映画であり、今の自分を形作ったものたちへの賛美映画である。





ーーーーーネタバレーーーーー





この世界には不条理があり、突然命を奪われることがある。
それは誰だって可能性のあることだ。
そして亡くなった人と近しい人間が思うこととしては、おそらく次の感情や思考がよぎると思う。
それは、自分のせいで死んだじゃないか、という罪悪感だ。
自分が直接的に殺したわけではない。
しかし、自分があの時言わなければ、あの時会わなければ、あの時外の世界に連れださなければ、という不条理な死と自分の行為とを結びつけて考えてしまうのだ。
それは確かに、そういった世界線ー言わなければ、会わなければ、連れ出さなければーその人が死ぬことはなかったのかもしれない。しかしそれは架空の話であり、その世界線に僕らは行くことはできない。それこそ「バタフライ・エフェクト」的な世界と展開を人はつい想像し考えてしまうわけだが、それは不可能なことなのである。

だから生きている者としてできることは、せめてその人との思い出をルックバックし、描き続けることだろう。

人はつい罪悪感を抱き、自分を否定することで、現実を乗りこなそうとする。僕はそれはそれで否定するつもりはない。その罪悪感を抱いてる自分の声を聞く、絶望の中で自分と向き合う、そんな時間も大切だと思う。

でもある程度浸り味わったら次の場所に向かおうではないか。その方が建設的だろう。前に向かって歩こう。


藤野と京本の関係性は、お互いが待ってない部分を補っている形だ。藤野は外交型でストーリーやアイデアを生み出すのが得意なタイプ。一方で京本は、内向型で背景画が抜群に上手いタイプ。

描くことが好きなのは共通点だが、そのタイプは割と正反対な二人。でもだからこそ二人は惹かれ合った。お互いがお互いのファンだった。

このファンであることの感情表現も二人で違うところも面白い。藤野は闘争心とプライドから感情を隠すが、京本は恥ずかしながらも素直に感情を表現した。

これはファンが対象者を嫌悪するのか愛好するのか、の違いと似ていると思う。この後記述するあの殺人鬼もアニメや創作者に対する感情が愛ではなく憎悪に変わってしまったと言えるんだと思う。

今作のラスト、自分が今漫画を描けているのは、京本のおかげであることに気づき、いや気づいてはいたんだが、藤野はそれを伝えられていなかったことに後悔しているようにも見えた。でも絶望の中で、藤野は京本との思い出を振り返る。そして京本の心情に思いを馳せる。京本に「なんで描いてるの?」と聞かれる。その答えは、具体的にセリフとして提示されない。でも十分過ぎるほどに伝わるものだ。藤野と京本の日々が、二人で漫画を描いた日々が、その数々の画が、教えてくれるのだ。

「なんで描いてるの?」の答えは、言葉にすると陳腐だし、言葉にしないほうがいいだろう。

ただ、最後、藤野が描く理由と意志は明確なものになる。

これからも、藤野は漫画を描き続けるだろう。


<ルックバックというタイトルについて>
・藤野と京本はお互いの背中を追っていた

・自分を形作った過去を振り返る

・京本は背景画担当

「部屋から出してくれてありがとう」は京本から藤野に対する発言だが、それは藤野にも言えることだろう。藤野は京本のおかげで漫画家になれたのだから。


<表裏一体としての創作者と殺人鬼>

藤野も小学生のときに一度漫画を描くことを諦め挫折した。
しかし藤野は京本という良き理解者がいたし、二人で一緒に創作することで漫画家としてのキャリアを積んでいった。そして藤野は売れっ子漫画家として成功を収めるに至った。

しかし、これは極論だが、もし京本という理解者がおらず、漫画家として成功していなかったら、藤野は殺人鬼になった可能性もあると思う。挫折から嫉妬や怒り、絶望を抱え、自己価値を見出せなくなり狂気に走ってしまう者は一定数いるのだ。

今作で出てくる殺人鬼もバックグラウンドは全く描かれてはいないが、パクられたことに恨みを持っていることから、彼自身創作者であったことが分かる。

しかし彼はペンを持って描くことを止め、凶器を持ち人を殺すことにしたのだ。

漫画家にとって、描くことは生きること、とほぼ同義だ。殺人鬼は生きることを諦めたが故の犯行だったと言えよう。

ひがみや妬み、怒りに支配されてはいけない。
恐怖や悲しみ、絶望に支配されてはいけない。
逆にそれをコントロールして、自分の創作に生かす必要がある。
そしてそれが藤野にはできて、殺人鬼にはできなかった。


<京都アニメーション放火殺人事件>

明らかに京都アニメーション放火事件をモチーフにしていて、改めて調べてみると、とんでもない事件であることが分かる。

2019年に起きた36人の死亡者を出した戦後最多の殺人事件。夢を作り出すアニメスタジオを放火した青葉氏の行動はまさに悪魔の所業だろう。

その動機は「パクられた」というものだ。

争点となったのは、責任能力の有無。検察側は人のせいにするパーソナリティを要因とし、完全責任能力ありとした。一方で、弁護士側は誇大妄想による心神喪失で無罪を主張した。

143日間の長期に及ぶ裁判の末、青葉氏は死刑を宣告される。その理由としては、凶行に出るまで葛藤する時間と躊躇う素振りが見られたことから理性の存在の確認、用意周到な計画的な犯行性、また人の道を外れることをやってしまうことを自覚していた犯人の精神性や、自分の思うようにならないことばかりだから火をつけたという身勝手さ、などが挙げられるだろう。

青葉氏は明らかに精神は病んでいたものの、心神喪失はしていないとみなされたのだ。

青葉氏から感じるのは、死にたい、行き場がない、生きていけない、金なし、未来なし、希望なし、という絶望と死の匂いで、いわゆる「無敵の人」と呼ばれる類の人間なんだと思う。

※書いておいてあれだが、この「無敵の人」という言葉は安易に使わない方がいいだろう。なぜなら、言葉には恐ろしいパワーがあり、この「無敵の人」という枠組みに、自分を当てはめることで、凶行に走る人間もいるかもしれないからだ。

しかし、いったい何故こういった人間が生まれてしまうのだろうか?

それは本人の生まれ持った性質もあると思う。

でももう一つは、環境的側面が大きいだろう。

青葉氏は母に捨てられ父は自死し孤独に陥った。また人間関係を苦手とし人を避けるようになった。

放火事件をおこす前の下着泥棒やコンビニ強盗に関しても「人とのつながりが完全になくなった時に犯罪に陥る共通点がある」と青葉氏は法廷で自らの口で語っているが、孤独がいかに犯罪に走るリスクを高めるかが伺える。

また「涼宮ハルヒの憂鬱」に魅了され京アニの小説コンクールに応募するも結果は落選。その挫折も彼の中で現実と夢のギャップがさらに深まることになっただろう。でも青葉氏はその現実を素直に受け入れることはなく、歪んだ形でしか受け入れることができなかった。自分の現実や才能と向き合おうとはせず彼は圧倒的な他責思考と妄想に基づいて現実を乗り切ろうとした。

またこの事件は「愛多ければ、憎しみも大きい」と青葉氏が法廷で語っている通り、表裏一体としての愛憎の恐ろしさを痛感する事件でもある。

彼は「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメの世界に感動した。そしてそこには確かにアニメという創作物に対して愛があったはずである。しかし、その愛がある経緯を辿って、憎しみに変わってしまった。

自分の現実と違いすぎる、アニメの世界。
自分の現状と違いすぎる世界に対して、人が抱く感情思考としては以下の二つである。
1、好き、喜び、憧れ、羨望、敬仰、同一化
2、嫌い、怒り、嫉妬、拒絶、否定

それは表裏一体だ。1と2の感情思考は行き来することもあるだろう。

ただ夢と現実の境界が曖昧であったり、自分の現状に不満を抱えていたり、過剰に他責思考をしてしまう場合、感情思考は2のベクトルに向きやすいだろう。

青葉氏は自分の現実とあまりに違いすぎるアニメの世界に嫌悪感を覚えたのだろう。夢の世界を作り出し現実とのギャップを生み出し余計惨めな気持ちにさせたアニメに怒りを抱いたのだろう。自分を受け入れなかった夢の世界に復讐するべく青葉氏は凶行に出たのだろう。

では、第二の青葉を作らないために僕たちができることはなんだろうか。

青葉のような人を孤独から救うためにも手を差し伸べることだろうか。相談相手になってあげることだろうか。向き合うことだろうか。

そういった綺麗事はよく言われることだろう。いや、そういった人との関係性で救われる一面は多分にあると思っている。人は人と感情や想いを分かち合うことで救われるし生の実感を得られるものだ。

しかし実際問題、孤独や闇を抱えた人と僕たちはどれほど向き合えるだろうか。

そういった人間と向き合うことは、闇に呑まれる危険性、自分も被害に遭うリスクも孕んでいる。また相手の闇や孤独を受け入れることが果たしてできるのだろうか、という問題もあるだろう。

思考の前提や価値観が違う人間と分かり合えるのか、冷静に話し合えるのか、甚だ疑問なのである。

人は危険な因子を排除あるいは無視しようとする。そこに人間の不寛容さが現れている。いつだって人間は自分の安心安全が大切なのである。

ちなみに自分も青葉氏と友人になる自信はない。事件を起こす前に知り合ったとしても、危険な匂いを感じて距離を置いたと思う。

人はどれだけ寛容になれるのか。どれだけ人と向き合えるのか。

それは世界の分断や多様性が加速する今日の社会において、考える必要がある事なのかもしれない。


<類似作品、もしくはオマージュ>
「ワンスアポンアタイムインハリウッド」
→こうだったらよかったのに、という世界線の実現。歴史改変モノ。ヒーロー登場。

「ララランド」
→あり得たかもしれないイフ世界を最後に一気に見せる。でも現実を受け入れる。

「バタフライエフェクト」
→微小な変化が時間の経過によって、その後に甚大な影響を及ぼすーバタフライ効果をモチーフにしたもの。過去に戻り現実未来を変える。

「インターステラー」
→五次元空間からメッセージを伝える。ルックバックでは、ドアの下の隙間がワームホール的なものになっている。時空を超えたやり取り。

「雨に唄えば」や「ショーシャンクの空に」
→藤野の雨の中で走りと通じる。
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