余談ではあるが、今作は僕の失態で本編58分の作品に対し上映開始10分過ぎに入場してしまった為、かなり浮ついた鑑賞とはなってしまったが、大筋は忠実に原作を踏襲する内容であったのはせめてもの救いであった。
おかげで、途中からでも置いてけぼりにはならずにすんだ。
というか、今作は「藤本タツキ」の絵がそのまま動き出したかのようにタッチからなにからまさに原作漫画”そのまま”という感じで、原作者の持つ描線の癖まで完璧と言っていいほどに再現されており、その忠実度にはもはや脱帽ものであった。
そのように、”超絶美麗”とはまた違うベクトル、アプローチでの神作画を届けてくれたというだけで、無条件で今作を高く評価せずにはいられないのだが、逆を言うと中身は勝手知ったるもの以外の何物でもないというのが率直な感想。
ただ、琴線に触れたポイントは今回明確に違っていて、原作を初めて読んだ当時にはセンセーショナルな展開が起こる後半に心を動かされたのに対し、今作では序盤のシーンにこそ強く感動を覚えたのは新鮮な発見であった。
そう、誰もがピンとくるであろうあの雨のシーンである。
前提として、今作は藤本タツキの自伝的なニュアンスを含んだ作品である事は、主人公2人の名前「藤野」と「京本」の名前を足すと原作者の名前になる事からも明白であるが、そうしたときにまず真っ先にこの物語を通して見えてくるのが”産み出すことの辛さ”や”続けることの孤独”である。
「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、人が独自の道に進むきっかけには、その分野に対して周りより"自分が秀でている"と自覚することから始まる場合が多い事だろう。
冒頭での藤野は、そんな慢心した気持ちが前面に表れており、漫画を描く事に対して周囲から賞賛を得ていた彼女は疑う余地もなく、何も失うことのない、何もかもが満たされた人生がいともたやすく手に入ると、無邪気にそう思っていたに違いない。
同じ土俵に京本が現れるまでは。
実は僕も絵心には多少の覚えがあり、それこそ小学生のころなんかは、将来の自分は漫画家として人々を楽しませていると信じて疑っていなかったものだが、年を重ねるにつれそれがただの幻想であったと痛感する出来事に幾度となく直面したりなどして、どうしようもなく打ちのめされた経験があったりする。
それこそ、漫画家という職業が何も失うことなく、何も欠けることなく出来るような仕事ではないのだと自覚した僕は、挫折を経て今の生活に甘んじている言わば敗北者なのだが、今プロとして絵を描き続けてる人達はすべからくそれらを覚悟した人達だ。
創作とは現実に「背」を向けて、孤独と向き合い続けるだ。
当事者だからこそ分かるそんな苦しみが、今作の序盤にはぎっしりと緻密に描写されている。
そして何より、そんな苦行をこなし続けるに足る存在を、今作は鮮烈に描写している。
雨だろうと、それまで完膚なきまでに諦め尽くして打ちひしがれていようと、そんなこと一切抜きにして、無条件でまた孤独に向き合う覚悟をくれる存在の偉大さ。
それを、あのような端的な表現一つで言葉も何もなく示されてしまうと、過去の自分にも重ね合わせてしまう部分があったりして、痛烈なほどに心を揺り動かされてしまう瞬間であった。
本当に1時間もなかったのかと思えるほど濃密な内容に、神がかった原作絵の動画化。
鑑賞料金で物議を醸したりもしていたが、こんなものを観させてもらっておいてなにを文句言ってるんだと思ってしまう。
ということで、話によると見逃した冒頭シーンにこそ、原作にないオリジナルの演出が為されていたという話なので、配信が始まったら再度見返してみたいと思う。