[エストニア、無計画な身体性の行方] 40点
ライナル・サルネ長編五作目。一作目は現代が舞台の悩めるティーンの物語、二作目は『白痴』のサルネ流解釈、三作目は19世紀のダークな神話世界、四作目はエストニアの有名作家の伝記というように、作品ごとに作風が大きく異なることで有名なライナル・サルネが今回のテーマとして持ってきたのは、ソ連時代に禁止されていたもの、つまりポップカルチャーと宗教の融合である。物語は1973年、ソ連と中国の国境で警備をしていた主人公ラファエルが、謎のカンフーマスターたちに襲撃されて一人だけ生き残るところから始まる。襲撃者の一人にヌンチャクを投げ渡されたラファエルは、帰国後別人になったようにカンフーに執着していく。ある日、偶然通りかかった修道院に入ると、そこの修道士たちはカンフーの達人であることを知って入会する云々。実在の事例に基づいているエピソードも多く、特に冒頭の挿話はカンフーマスターと盗賊を置き換えたらそのままらしい。また、当時の修道士の多くが修道士になる前はヒッピーだったらしく、彼らは修道院での生活を物質主義に対する反抗とみなしていたらしい(実際にナファナイル神父が食事を全部混ぜ合わせるのも、彼が政治犯として刑務所に居た際の経験からと言われていた)。また、元々は正教に興味を持っていたというサルネがブラックサバスなどと結びつけたもの、地下墓地の上に住んでいる黒い神父服を着て長い髪を持つ元ヒッピーの宗教者という、一見すると矛盾するような出自に惹かれたからだとしている。カンフー自体は…たぶん"イコン画に描かれた手って技の型みたいだよね"ということから来てそう。そういう設定自体は面白いんだが、物語自体が行き当たりばったり過ぎて観ているのが辛かった。カンフー特有の無駄な動きの多さも、時代性を帯びた"自由の渇望"としての動きというより、結局は行き当たりばったりな身体性という感じで、最終的に"悪魔は自分の心のなかにいるから見えない戦いになる"というナファナイル神父の言葉に邪魔されてしまい、これまでの動きはなんだったんだ…となってしまった。これで120分は長すぎるだろ。無計画な話運びは初長編以降先鋭化を続けているが、観客が面白がれるラインを『ノベンバー』でクロスして以降はどんどん遠ざかっている感じがして、今にしてやっとライナル・サルネ好きではなく『ノベンバー』が好きなだけだったと気付いてしまった。とても淋しい。