距離感を測れないヤマアラシの葛藤。
依存性に悩むろう者の主人公に寄り添った繊細な作品で、劇伴がないことも相まって緊張しながら観ることとなりました。
他者を受け入れる、ならびに信じることは、誰しも難しいことだと思います。
表層で笑顔を見せていたとしても、その真意は「早く失せろ」かもしれませんし、「これが好きなんでしょ」かもしれません。
目も、耳も、鼻も、口も、手も使えていたとしても、怖いものは怖いのです。
それらの感覚のうちで満足に使えないものがあったとすれば、全部をそれなりに使えてしまう人よりも、さらに怖さは倍増すると思います。
ただ生きるだけでも、心に傷を負ってしまうことも往々にしてあるでしょうし、塞ぎ込めば塞ぎ込むほど内に内にと入り込んでしまうのが人間という生き物です。
一歩は遠く、その場に蹲って、時が経ってしまうことに嫌悪を覚え、次第に自分さえも愛せなくなってしまう。また一歩は遠くなり、蹲り、時が経ち、自分を殺したくなる。負のスパイラルに陥って、いつ枯れてもおかしくない涙を流している。そんな人は沢山いると思います。
主人公の造形を、そうした人の誇張と言う訳にはいきませんが、そうした人の思いを背負った人間として描写していると表現することはできるでしょう。
主人公は現実の我々と同様、悩み苦しみ、そんな中でも社会と必死に関わろうとしていきます。
他者を信じなければ成立しないエクササイズをすることになり、直前になって逃げ出してしまう。その様子が、ヤマアラシの描写にも重ねて示されていく。当然、心理学の用語かつ、本作のタイトルでもある「ヤマアラシのジレンマ」にも反響していく。多層的に、主人公が他者を受け入れる、ならびに信じることができない様子を映像作品的に落とし込んで伝えてくるのです。
物語は進み、想い人ができ、関わり、学ぶ。説明的、説教的でない、主人公、ひいては我々へのセラピーがなされていく。何も他者が引っ張り、壊すのではない壁。あくまで自分が壊す必要のある壁。最後の最後に、もう1度巡ってきたエクササイズのチャンスに、主人公は挑戦する意志をみせて終わります。
これはたとえ傷付いても、苦しいと泣いてしまいそうでも、それでも前を向いて、他者と関わる決断を下す、その重要性を、その肉体を、精神をもって、我々を体現した主人公が示してくれたのだと解釈しました。
これが希望に転じるかはその人次第で、主人公にも傷心の可能性はあるでしょう。
しかし、行動に移した主人公は格好いいですし、我々も勇気をもらうことができたのではないでしょうか?
総じて、恐ろしいほどに精緻で、不安定なバランスで組み上げられた我々へのエールに、静かに感動させられた作品でした!