今からほんのちょっと先の未来。ユウタとコウは幼馴染で同じ高校に通い、音楽部で音楽に没頭して普通の高校生活を送っていた。守衛の隙をみて学校に忍び込み、夜通し仲間と遊んだ後に校長のクルマに悪戯を仕掛ける。校長は激怒してAIで生徒たちを監視するシステムを導入し、締め付けを図った。在日韓国人としての日常的な差別などもあり、コウは自身のアイデンティティと周辺に起きていることについて考えるようになっていくが、ユウタは相変わらず仲間と遊ぶことだけを考えているように見えた・・・
学園もののジャンルでありながら、日本と世界を取り巻く出来事の縮図のような、意見の相違や何気ない日常の中に見え隠れする潜在的な差別意識、その根底にある保守的なものの見方をする人々の存在を描くことで、人々の意見の相違に関わる問題提起をテーマとしている映画。
ひと昔前まで、日常生活の中でこうした問題を皮膚感覚として感じることは殆どありませんでしたが、ネット社会になって相応の期間が過ぎ、個人の考えが顕在化(=可視化)する世の中になってきたことで、このような内面世界での問題が目に見える形で社会の分断を拡めていることは最早疑う余地のないところに来ているというべきでしょう。
大人の社会で当然のことのように起きているこの状況を、高校生に当て嵌めているところがこの映画の目新しいところといえます。
コウ以外にも校長の行き過ぎた生徒の管理手法に反対する生徒の存在や、それに呼応する者としない者、それぞれを描くことで、“声を上げる人”とそうでない者に分け、身近で起きる問題に対し、無視するのか、声を上げるのか、という二者択一の選択を迫る。
学校生活において一挙手一投足が監視されることで、自由が奪われると考えるか、秩序が維持されると考えるか、その両方の意見が当然のように現れるなかで、退学を回避するために見てみぬふりをする者も居る。
実社会においてもこうした選択を迫られることは度々訪れるわけですが、劇中でこの問題に対し、ユウタとコウ以外の登場人物にもそれぞれの選択を描くことで、観る者に自分ならどうするかを問うているといえるでしょう。
監督の意図するところは明確で、このような事態に対し、“見てみぬふりは許されない”という強いメッセージだといえます。
監督は今回の『HAPPYEND』の公開に際し、ガザで起きているジェノサイドについて、この映画と無関係ではなく、関連する事項である旨のアピールを行い、裏面に映画の参考文献などを記したポスターを自主制作して劇場で販売、売り上げをガザの犠牲者に寄付するキャンペーンを行っています。
これは、自身の活動を通して、対岸の火事として素通りすることは許されない、という意思表示であり、この映画のテーマと相通じるものであることをアピールしているのです。
ユウタとコウ、その仲間のいかにも今風な若者像に対し、このテーマを映画の真ん中に置いて物語を展開する手法は、現代社会の直面する喫緊の課題として理解できる、という部分と、学園ものというジャンルにおいて、これが収まりが良いかどうかという点では、些か違和感もないわけではないと感じるところが混在している、とも思うのですが、監督の最も危惧する、社会の好ましからざる動静について滲み出る思いは真摯に受け止めなければならないのだ、と思うのでした。