サマセット7

マトリックス リローデッドのサマセット7のレビュー・感想・評価

4.0
マトリックスシリーズ第2作品目。
監督はシリーズ通じてウォシャウスキー姉妹。
主演も同じくキアヌ・リーブス。

人類の最後の拠点、地下都市ザイオンに、25万機ものマシーンが迫る!!
残された猶予は72時間。
ネオ(キアヌ)やモーフィアスたちは、預言者オラクルの言葉に導かれ、マトリックスの深奥を目指す…。

前作の大ヒットを受け、続編の今作も大ヒットした。
3部作の前提で、撮影は今作と第3作との並行で行われた。

今作では、前作で描き切れなかった世界観を大幅に拡張。
また、覚醒したネオやモーフィアス、トリニティらが、前作を上回る、バーチャル空間ならではの物理法則を無視したスーパー・バトルアクションを繰り広げる。
世界観が拡張された結果、良くも悪くも前作とは一味異なる作品となっている。

以下、前作のストーリーに関する重大なネタバレを含むので、まだ一作目を見ていない方は、ここまででレビューを見るのはやめ、直ちに第一作目のマトリックスを鑑賞されることをお勧めする。
一度は観る価値のある傑作である。







・・・・・・・・・・・・・・・・・








今作では、前作のSF設定の説明は一切省かれている。
さらにこのシリーズならではの勿体ぶった言い回しで世界観が説明されるため、恐らく初見では何が何やらわからない。

少なくとも、以下のような前作の基本ルールだけは押さえておかないと、話についていけないだろう。
・人類のほとんどは、機械に昏睡状態で囚われており、肉体は機械の燃料として支配されている。
・昏睡状態の人類を長生きさせるため、人類は脳を機械に繋がれ、その精神は1999年頃の地球を模したバーチャル空間で生活している。
このバーチャル空間をマトリックスという。
・預言者オラクルと呼ばれる謎めいた女性の主導で、人類の一部は昏睡状態から目覚め、地下に生活拠点を作った。その拠点の名前がザイオンである。
・目覚めた人々も、首の後ろのプラグを通して専用の機械に繋がれば、マトリックスに入ることができる。その際は、意識の力に応じて、物理法則に捉われない動きをすることができる。
・外からマトリックスに侵入した者に対しては、防御プログラムであるエージェントが攻撃して来る。エージェントは、マトリックス内の人間の体に自由に転移することができる。
・覚醒した人類の1人モーフィアスは預言者から、人類を機械から解放する救世主が現れると告げられる。モーフィアスはその救世主がネオだと信じている。

長い!
あと、文字に起こすと、設定の中2感がすごい!!

今作でさらに世界は拡張される。
人類の拠点ザイオンの、共和政ローマや原始の祭典を思わせる姿。
マトリックスの中に巣食う、人間ともエージェントとも異なる、新たなプログラムたち。
エージェント・スミスの異形の進化。
マトリックスの、現実世界とは異なる、コンピュータ用語を参照したと思しき怪しげな法則性。
これらが謎めいたセリフと映像で描かれ、前作よりも更に情報量が多い。
この情報量の多さは、一見難解な印象を与えるとともに、観客に頭を回転させ、ある種の知的な快感を生んでいる。
これこそ今作の魅力と言えるだろう。

電脳空間に複数種のA.Iがそれぞれ異なる自我をもち、互いに異なる目的を持って行動している、という世界観は、今作の10年前に書かれた「ハイペリオンの没落」など、著名なSF小説の影響を感じさせる。
今作のA.I.たちの演技は、「非人間的なものが、人間臭くしようとしている」という絶妙なラインにあって面白い。
特にメロヴィンジアンとパーセフォニーという、いかにもマトリックスらしい意味深な名前の付いた夫妻は印象的だ。
彼らの「出題」する問題は、どこか哲学的である。原因と結果、因果の流れ、愛とは何か。
この辺りの「何だか深そう!」と思わせる味は、ウォシャウスキー姉妹ならではだろう。
またこの夫妻のいずれも劣らぬ悪趣味さは、ウォシャウスキー姉妹の監督デビュー作バウンドの窃視的な背徳感を思い出させる。

今作の最大の目玉は、前作よりもパワーアップしたトンデモバトルアクションにある。
公園、邸宅、高速道路など、異なるフィールドに移るたびにバトルが巻き起こる、というあたりは、映画的というより、ゲーム的だ。
格闘描写もどこかストリートファイター2とか、真・三国無双といったゲームを想起させる。
今作では、ガンアクションよりも、棒術や剣術、刀術等の武器格闘がメインに据えられている。
前作でやや素人くさかった格闘演技は大幅に改善されており、キアヌ・リーブス演じるネオの超人的強さは、素直にカッコいい。
モーフィアスの見せ場も燃えポイントである。
敵役も、新たな能力をもち唯一ネオに対抗し得るスミスや特殊能力をもつ双子、白服の女性戦士など、バリエーションに富んでいて、それぞれ強く印象に残る。

とはいえ、前作で特徴的であった全編通じたドヤ感は、今作では明らかに一部後退している。
なぜ後退したか前から疑問だったが、今回の鑑賞で原因に思い当たった。
原因は、モーフィアスにある。

逆に言うと、前作で圧倒的なドヤ感を出していたのは、この男であった。
超然としたサングラスに黒ロングコート姿。
ミステリアスな、重々しいセリフ群。
訓練モードでネオを軽くあしらう達人ぶり。
演じるローレンス・フィッシュバーン自体の放つ、重厚感ある只者でなさ。
自己の行動についての、絶対的確信。
ネオの教導者として、恐るべき存在感があった。
まさに、ドヤ感の権化。
ドヤの塊。
それが前作でのモーフィアスだった。

一方、今作である。
今作でモーフィアスは、ザイオンでは司令官から嫌みを言われる中間管理職であった、という驚きの事実が明らかになる。
ザイオンではサングラスがなく、優しい牡牛のような目をしているから尚更悲哀を感じさせる。
その狂信を原因に、彼女にも振られている。
彼の行動で迷惑している人もいる。
社会の中で相対化されることで、モーフィアスのミステリアスな超人感は希釈され、1人の個人になってしまった。
また、もう1人で戦えばいいんじゃないかという強さを持つネオの覚醒により、戦力的にも、二軍とまではいかないが、もはや達人感は薄まった。
もちろん、日本刀を操る見せ場のカッコ良さは最高なのだが。
残念ながら、彼から、前作のドヤ感は失われてしまったのである…。

今作のテーマは、「改めて、この世界とは何か」ということであろうか。
前作では、世界は個々人の意識次第、という人から見た世界が語られた。
今作では、プログラムの視点、客観合理の視点から捉えた世界の仕組みが語られる。
すなわち、原因と結果、出力と入力。
因果の歪みも含めて、計算可能な世界観。
そこでは、意思や愛は、脳に走る電気信号の一類型でしかない。
こうした世界観は、確定した運命論にも通じる。
このテーマに対して、ネオは最終盤の幾つかの選択や行動で回答を出す。
しかし、その選択すら、予定されたものでないとなぜ言えようか。
最終盤に登場するキャラクターの言葉は不気味に響く。

ラストに、ウォシャウスキー姉妹は観客にシリーズ世界に対する根本的な疑問を投げかけ、今作は次作に続く。
このドヤり方はさすがである。
エンドロール冒頭で流れるレイジ・アゲンスト・ザマシーンのカルム・ライク・ア・ボムの激烈な熱量に、次作へのテンションは否が応でも高まる。

新たな魅力を打ち出した、優れた続篇。
とはいえ、複雑で小難しい物語にゲーム的流れ、ドヤ感の後退と、好みの分かれるツボは多そうだ。
私としては、前作ほどではないにせよ、好きな作品である。

ところで、前作と今作は何度も見返しているが、なぜか次作はほとんど見返していない。
もはや内容の記憶も曖昧だ。
意識的に記憶を封印した気もするのだが…。
何にせよ久々の第3作。
再鑑賞して、自分がどう感じるか、楽しみである。