CHEBUNBUN

敵のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

(2025年製作の映画)
2.0
【依存先を失ったときに敵が現れる】
第37回東京国際映画祭にて筒井康隆の同名小説を映画化した『敵』を観た。『仮面/ペルソナ』や『惑星ソラリス』系の内なる他者を扱った作品であり、私の得意ジャンルではあったのだが、結果は渋いものであった。

食事を作る、PCに向かって執筆する、たまに人と会う。そんなルーティンをこなす渡辺儀助の日常をジャンヌ・ディエルマンのように淡々と追っていく。当然ながら、その過程でほころびが生まれ、本作のテーマへと繋がっていく。

渡辺儀助は2つの方法で思索を外部化している。ひとつはPCである。そしてもうひとつは、他者だ。彼自身は孤独を受容し、質素であると自覚しながらも毎日豊かなご飯を作り嗜んでいる。遺言状も書き、この世に未練はなく、あとは来るべき死を待つだけなのだが、その平穏は他者の存在によって成り立っていることが段々と分かっている。老体でありながら、先立たれた妻のことは心のどこかに引っかかっており、性欲もある。表面上は抑えているように思えるが、教え子を家へ招く中で性欲が起動する。結局のところ、本当の孤独を受容している訳ではなく、他者、もとい女に孤独の痛みを吸収してもらって平穏が訪れているだけなのだ。

対話の場の喪失、PCがコンピューターウイルスか何かで起動しなくなる2つの条件を満たしたとき、渡辺儀助は「本当の孤独」と対峙せざる得なくなる。無意識が干渉してくる夢において、他者との対話を行う必要が出てくる。その中で、彼が抱く恐怖が現出してくるのだ。つまり、依存先を失った者が内なる他者と対話することで孤独を捉える話であり、おじさんおばさんが若者に執着する心理を風刺している。

ここまで書いて面白い映画だとは思ったものの、演出に難があり乗れなかったことを報告したい。まず、食事の描写であるが、執拗さの割りにそれが効果的に思えなかった。ほとんどの料理が等価に扱われているのである。夢による妻との対話によって痛みが軽減されると共に現実が凄惨になる『異人たちとの夏』のような展開を期待したが、彼がわびしい食事をするのはカップ麺を落とす場面1か所のみ。微かに洗面台の雑然とした食器を魅せていたりするが、食事のクオリティへ直結しているわけではないので分かりにくい。「失われた時を求めて」に出てくる食事を背伸びして作る場面も、前後の対比で食事の全体像を魅せていないので機能しているようには思えなかった。

ふたつめに、ダークコメディ要素がノイズで終わっていた点にある。PI上映では爆笑の嵐ではあったのだが、安易なヒッチコックオマージュであったり、犬の糞を使ったギャグがテーマの重さに見合っていないように感じ、ただただ下品であった。

最後に、本作は料理を作る運動のほかに、棚卸しをする運動が並行して描かれている。渡辺儀助の思索のメタファーとして棚卸しの反復があるのだが、料理を作る描写同様映画全体としての運動の差異を描き込めておらず、演出の効果を十分に発揮できていなかった。

結果として全くハマらず虚無の刻を過ごしたのであった。
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