✔️🔸『孤独の午後』(3.7)🔸『何も知らない夜』(4.4)▶️▶️
異色かつ極めて優れたドキュメンタリーという、括りか。いや、何が異色かとなる。ドキュメンタリー自体がかなり不思議なジャンルだ。職業俳優とそれに即した処理から、離れれば、ストーリーも語ってよく、ドキュメンタリーを名乗れる。そもそもカメラを向けられた瞬間から、カメラありの特別な事実・現実となる。対象のスポンタニティに依存しつつ、その場で創作を離れ、独自の撮り方も出来、撮れた素材を如何様にも変形できる。
セラは見始めて10数年になるのだろうが、周りの映画ファンのように熱狂はそうない。センスのよさ、変わった空気に、魅力を感じるたけだ。ドキュメンタリーも冷たさがなく、不思議に作品自体が呼吸している。少なくとも紛れもない傑作と言わざるを得ない作が複数本あるは確かだ。本作も、故国ペルーから中心のマドリード迄仲間らと旅を続けてく、闘牛士のアイコン的英雄をその支度、興行の闘い、車での移動に、夾雑物見えないくらいに密着してく。対人関係よりは、その存在と周りの空気を造型し、その醸し出しを塗り込める事がメインなので、画面周囲や対置並行カットに仲間らや牛が配置されるだけで、車窓風景は終盤に微量だけ。牛との絡みの具体は、それまでのカット断片分け対峙や望遠一杯から、やはり終盤に適切に長め立体として収められる。
牛の背に剣を刺しては駆け去る、厚布で保護した馬に乗って上方から、らの仲間の牛攻撃から、体力消耗も狂暴度増したのへ、接近極限・最小動きでかわしかわして、とどめ刺す役の英雄、それが繰返されて分かってきてるのと相乗され。
赤・黒・黄・また白が、衣装・塀・血・体毛や眼らに強烈に塗り込められ、カットは狭く短く感覚が麻痺してきて、何度か、地や塀に角に刺されたまま押し潰され死んだに違いない痛みにそれでも肝を潰し、狭くも代替え出来ない世界が途切れず濃密に続いてく。牛も悪役プロレスラー演技、A・ブッチャーのように、見栄を切り悪あがきを続けては崩れ絶命してく。
対象の主人公は、知人の闘牛士の噂話をし、自らの見映えや客の反応を半ば気楽に話し、周囲・仲間から、「死んだと思った。鍛えた筋肉が違うのか」「君は得難い英雄だよ」と驚き崇めれ、自らは「情熱」場や牛・客の「支配」の途切れなさを鼓舞してく。その麻薬的高揚と冷静な眼は欠かせず、旅先風土への惹かれやなびきを無化してゆく。
撮るスタイル・スタンスの固持は、徐々に進化をテーマと共に見せてくが、望遠での細かく絞った断片パンの組合せの狭さを高める確かさ、より望遠アップの表情や意志の押さえ、車内の広角一帯固定捉えはともかく、鏡を通した図が多いとはいえ、控え室での本音語りや感情高め自己鼓舞を、カメラ位置を変えながらの捉えなど、よくそんな緊張感や自己の弱さ吐露の場にカメラを入れたものと、対象だけでなく作家の目的へ向かう狂気に呆れてしまう。狭さへの強靭さと半盲信性が、作品の抗せない魅力と限界の予感を表してる。
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5年前二度め、泊まりがけは初めてで最後の山形(台風で帰宅日が遅れ、大変だった)で遭遇、年間の非商業映画部門のベストに置いた『夏が語ること』の圧倒的美への感銘を、今作『何も知らない夜』は薄めることはない。前作もだが、ドキュメンタリーは勿論、通常映画の質感・リアリティを自然ながら、完全に変えてしまい、幽霊世界へ突き抜けたかのように、手応えや存在感があやふやで、夢遊病状態になり、その先の異次元の明晰さに至らしてくれる作家。
今回は、捨てられていた「L」なる女学生の恋人と学生運動への思慕と絶望について綴られた文面、それをメイン・随所に活かし、というより作家ベースに引寄せ、自己内面世界を自由に繰り広げてる先の部分も突っ走っているような読み上げに、何か引っ掛かる不自然か自然の一部拡大かのような音響、何より嘗ての学生らによるのが主体か、様々な活動とその暴力的抑圧、活力や維持感・或いは諦感包む私生活の、実際撮られていた多彩でかなりの量のフッテージの、流れに併せての復活使用の巧みさが延々続く。多くはモノクロだが、周囲を暗くボヤかして、素材をより不確かな存在に変えコントロールしている。カラーのパートにしても、赤っちゃけて、リアリティよりは何か酩酊の抑揚感が支配してる。そして流れで書き手、いわば主人公の姿らが必要とされるような時には、映画作者が演じ作ったような半主観映像が、周囲ボカシもなく、挟まれる。これらの作為も客観性も弱めボヤかした素材があつかう、対象と内容はデリケートを究め、特定を避け問題を表面を染み込んだ、歴史と世界に及んでく。
「現首相政権が長期になってから露わに強まる反動性、その矛先がまず集中的に向けられた、映像大学の支配コントロールに対して起こった、デモなどの抗議行動の拡大と持続、先進的な中心的な一般大学から、保守的な大学まで。だが、学費でも国の助成で優遇されて成り立ってる中心大学の在り方、嘗てパゾリーニが五月革命の頃、抗議の学生は優遇されてるブルジョア、鎮圧の警察は生活苦のプロレタリアート出、必ずしも私は前者につかない、といったことが、今の女性警官らにも適用されてく。正邪をはっきり分けられる程、現況は簡単ではない。全ての線引きは`繊細´である。大学に対しては強硬であり続けた恋人が、今は故郷で家族による監禁に甘んじてる。私への手紙も来ない。本当に闘うにあたり、私と彼は僅かでも一致点はあったのか。今では疑わしくもある。
ヒンズー教徒至上主義は強められ、イスラム教徒や少数異民族は、あからさまに迫害の対象になってる。カースト制の異階級の結婚は、本人より社会によって阻止されてく。その際、上位下位と男女の性別対応が、逆になっても事態は変わってくる。敵は明らかに存在するが、その輪郭ははっきりと決められない。慎重繊細が求められる。それが蔑ろにされがちだからこそ、時代に逆行できる、あからさまな狂気暴力が横行しているのだ。」
映像にはベース素材の日記の筆者が文字と共に、彼女が好んで描いたという、鋭い批評精神に彩られた漫画の線が白く載せれられたりもしてくる。材料を自在に膨らまし、しかし、ある種の節度は越えず、声だかにならず地味に主張を編んでゆく、映画の作者。ライから繋がるわけでもないが、インドにも未来への警鐘抗議の仕方を手放さないこの種の作家がいる。この数年間で最も感動したインド劇映画も、この種の問題をデリケートに扱った女性の作だった。セラはともかくこの作家は、興業や発信の力を除いて、作家の純度・才能だけを見るなら、米というより世界のイコン的、イーストウッドやスピルバーグより上の存在である。