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ファントスミアのニューランドのレビュー・感想・評価

ファントスミア(2024年製作の映画)
4.2
✔️🔸『ファントスミア』(4.2)🔸『二つの季節しかない村』(4.6)▶️▶️

 チラシで確認してまず一番観たいやつは仕事などでバッティングして、無理な事が多い。最近は素材運びが船便でなくなったせいでもあるまいが、スケジュール発表が遅く、それから会社に休暇願いは出せない。今回のTIFFは『海で泳げない鯨』をまず観たいと思ったのだが。
 その分、かなり飽きてきた旧知の作家は空いている。ディアスは旧知と言っても初めて観たのは11年前に過ぎない。丁度10年前は、『昔のはじまり』を観ていたか。が、当初2作には心から驚いたが、その後は、審美的・神話的傾向が、モノクロ採用と共に強まり、熱狂とはいかなくなった。更に最近は通常の犯罪に捜査から耽溺、と一般映画のパターンにも近くなってきた。
 今作も、歩いてくのへの(手持ち)フォローらも時おりあるが、多くフィックスで捉えられた、自然やロケセットの、縦の構図までコントロールし、不意の揺らぎ迄納め、雨・豪雨を執拗にメインに据え続けた粘り、不安な音からポピュラー・クラシック迄の音への配慮、結果どんでんを返したのにもなるカットの受け継ぎの意識、広い俯瞰や仰角めの力まない入れや・全体の締まり的確な広角の通し、映画としても妙に気張った上級意識を拭い、らがいつしか揃ってるなと思うと、上手く張り出さず、何かを相殺してて、普通に浸り共存出来るベースの一般映画として、抜け出てる。かといって妥協の苦さや甘さはストーリーにしかない。
 風俗や持ち物、主人公の元曹長が若い頃レンジャー訓練してた回想が1950年代だということなので、1980年代の話しかなと思って観てると、ラストに曹長の1979~1980年の日記による、と出てくる。戦後暫くは未分離だったのか、軍警察の高名なレンジャーの曹長だった主人公は、国家の為に、反政府軍や、キリスト教イスラム教の絡み、貧しいスラム街の権利要求や異文化人種の勝手らを、暴力的に潰すを、義務としてきた。しかし、美しい生家や故郷家族が異臭を放つまでに焼き払われ、臭覚ばかりか精神も狂わせ、退役して今に至ってる。
 もう一つ、流刑島に、蔑まされ支配管理されてる、多大な囚人たちと、原住民の村々が隣接共存して、様々に蝕まれてる。が、ここは今でも捜索確保の催し物が行われてる、伝説の人間か獣かの、名前が生きてる所でもある。
 医者に社会復帰は、以前に近い職に就くこと、これ迄を丹念に日記化する事と言われ、主人公がここの警備責任者に応募採用される。施設の責任者、島の支配者でもある少佐は、彼を丁重にもてなし、老獪支配を示してく。この流刑地施設に、規則を越えて近付き、少佐とツーカー持ちつ持たれつで、密売や売春や観光ら客誘致で、稼いでる悪どい女将の存在。部下を無視、個人で律儀に巡回監視を続ける内に、不当な圧迫や収益、コントロールを目の当たりにし、妥協しながらも、許せはせず孤立してく元曹長。これ迄の自分の殺戮と統制に沿った半生が間違っていて、催しで島を訪れた詩人の尽きることのない謳い(変に感動的シーケンス)の如く、一般的人間解釈を越えた生と歴史の流れ、死が生や出発点に逆転の、本来的な罪と改心の意識と行動に気づいてく。これらの象徴的存在、女将に兄と共に養子にされ、少佐らへの売春を強要されてる、目の不自由なハーフ少女を、兄の誇り裏打ち演技や少佐一発射殺らを介して、「新しい出発へ」と、離島させてく。
 上手いストーリーテリングなら、四時間強の1/3で済む内容であり、展開に不合理や非効率なところも散見し、ラストも主人公の見掛け無惨な葬られ迄描くべきだったかも、知れない。しかし、総てを呑み込んだ、巨大な可能性と地盤の無形の確信へ向かう、傲りも焦りもない、揺るがず嘘のない筆致は、極めて貴重で評価し過ぎる事はない。それを踏んでこその作品の確信力の生まれだ。この作家を見始めた頃の、現実への汚れを呼び寄せての密着が戻ってきてる。明快な分、逆に含みもある。
 只、時折動きとコマの送りがおかしいが、フィルムからデジタル変換、或いは異方式のデジタル間コピー、の不備のせいか。
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 映画祭の料金は高く以前のように、800円で『サタンタンゴ』にフッと出会うこともないので、通常興行の映画割引きデーの一律料金で、同じように国の辺境の地の後進性との忸怩くたる対峙を扱った、ディアスには及ばないが3時間半を越える、大長編『二つ~』を観る。時間潰しの軽い気もあるが、ジェイランの前々作『雪の轍』を年間ベストに置いた流れでもある。その割には前作を観てないいい加減さだが、『雪の轍』は北欧の近代劇を、トルコの広大な自然と解け合わせて、完全以上に描き上げたジャストミート感、かつあり得ない表現の格といったものに圧倒された。それまでの作での、ミステリアスで魅惑的呪縛圧巻のローカル色、という映画の本質的魅力を体現した作群を、一転ひっくり返して、正統な、陰りの少ない、演劇的世界の力業を実現したわけで、知り合いの鑑賞本数無茶苦茶人は、以前作を繰返し観てたが、以降は映画離れと興味を失った位の作品てしかない、とも見れる。
 が、今回は演劇台詞論理・高揚からも、広い未来や世界に開かれた力強い可能性からも、どうにも小ぶりでイジイジと、映画イメージからも葛藤新世界見えからも、遠い。この地を脱け出し、イスタンブールに帰りたい、小学校教師の赴任してるは、独特すぎる東トルコの寒村。手足が伸ばせないまでも、その感触を探っていると、村を成す人は、真っ当な理由や論理はなく、キチンと説明のつかぬ「悪巧みと噂」の世界に、総てが引き込んでくる。誤解か、嫉妬か、教え子や同僚親友までも。
 タッチは特に光り目立つことはなく、フォローや角度変を正確で急がないペースで、雪囲む等の自然と協調して進めてくばかりである。が、時おりその中から、映画的とも言えない端の意図のない息吹的艶や輝きが頭を覗かせる。
 出来る限りの予算での環境改善や、キリストイスラム紛争からかたわ身体になった女の不思議な妖しさ活力も見え隠れする。ひとつハッキリしてるのは、ここにある、ここからあった、皆はここを脱け出すを常に念頭に置きながら、入り理解へも向かわぬ主人公に対し、実体としての「沼」に浸かるも厭わない、投げやり一辺倒ではない、物事への「好奇心」が活き続けてる事である。
 主人公も少女に心の声で、彼女も行き着く漠たる未来をつげるのだが、これらの近代的とは言いかねる妙な会話論理は、個人的に出自的に分かる。だから、近代とは無縁の出口なしにも、暗さを抜けた何かの力も感じる。また、偏屈な以前の作のテイストと、正統巨大な『雪の轍』が、妙な形で結合せんともしてる。
 【未完】
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