ニューランド

月よりの使者のニューランドのレビュー・感想・評価

月よりの使者(1934年製作の映画)
4.6
【詳述は、『愛の町』2024-10-13 欄で】これも稀有の傑作だが、サイレント期の田坂の作はあまり観れない。21世紀に入りプリント再発見なのか、数回上映されてる。派手さや乱暴さが整理されてきてるが、それでも自由さ・清らかさ・伸びやかさの一体化は、比類がない。

🔙【2024-10-13 文章途中からコピー】そして個人的にも21世紀になってから見始めた、戦後も(短縮化)リメイクされそれもかなりの名匠の手によるも大した事はなかった『月より~』のオリジナルサイレント。こちらは,『エイジ・オブ・イノセンス』的な薄っぺらく浅い空気で、内実は共にその真逆の作。只これは、いかにも二大スタープロ合作の、特に作家的力等入ってないようなメロドラマ典型で、主人公たちは道を外れない節度はあっても、信念は決して強くなく、如何様にも揺らぐ曖昧さ、ひとの良さ・弱さで、感嘆とかを抱くようなキャラではない。しかし、冒頭から波打ち際の荒浪押し寄せが厳しく交互的挿入され、ラストも括られるように、主人公らのだらしなさを容認もしてなければ、同時に裁断もしてない、個人の内部の誠実・奉仕・精神の絶えぬ抗いを捉え続けてる。その揺れ具合こそが、人間の正直なあり方ではないか、と語りかけこちらの心に染み込ませてくる。これは21世紀になって出会った日本映画の作品としては、高橋泉の近作『むすんでひらいて』等と並び、最良の傑作である。
 いかにも別れ去ってはまた逢ってしまう、メロドラマそのものといえる作。荒浪重ねや花のアップの連打入れの叙情、病院や高原や駅や車窓や刑務所の場、雨や雪の囲う力、らに彩られ、タッチも細く弱めなれど、自然な迷いそのものの厳かさと優しさの一体化の迷いの形象化・対象化がいつしかなされてる。やはり本作にも縦移動も横移動もあまねく張り巡らされてるが、印象としては形象や決断・感覚の不定形をそのままに生きる、横左右への定まらぬ動きやパンが心を直に揺さぶってある。列車内の兄妹の始まり辺からして、切返しはピタッと嵌まらず、俯瞰めも含む構図や2人とも収めは対応をズレて、カメラの動き自体も対象を越えて脇の横にスッと流れるがざら。まるで『白昼の通り魔』だが、世界へは繋がってゆかない。広め室内でも人の不安定な動きそのままか追う左右への不定形長め動き長め常態や速め左右パン、やはり切返しがピタッと来ない空間の角度押さえのやや不可思議が続く。部屋を跨いだり、広い屋外でこじんまりとはしない。やや敢えて深さや強さを欠くような平面性が活かされてく。自然の葉々や室内の建付けの影が儚く美しい。それは決心や信念に従いきれねキャラたちのせいでもある。なにかが統一的な希求に向かってる。
 恋人が病で決断を迫っても応じてくれない為に、勧められてた縁談に従うヒロイン。が式の当日、彼女の幸せを願い命を絶つ彼の深い想いが伝えられ、それ以上は自己勝手に進められず、信州の高原のサナトリウムで、結核患者らに献身だけをする看護師となる。しかし、他意が見えない無邪気さは、人々を癒す万能薬であると同時に、患者や医師らの勝手なプロホーズ願望を幾つも育む。敢えて表に出さぬ、画家や院長はともかく、一途で破滅的な患者、病で婚約者のうちからも疎まれ希望を失くしかけて来た新患者、彼女を絡めとってく放射線医師の、それが1日に集まる。ヒロインは、2番目の男との駆け落ち的去りを決めるも、最初の男の自殺、2番目のの許嫁の彼の妹に伴われての家出しての登場で、決意鈍り、2番を許嫁へ譲る段取りに置き換え、姿を隠す。
 一年後湘南の病院で優秀な看護師として信用高くなってたヒロインは、さる館の重病患者の付添いに指名される。しかし、それはあの愛する、去り諦めたはずの男の、まさに彼に託した妻で、一年前自分の顔を見られてたか、そして帰宅した夫との顔合わせをどう処理か、ハラハラが高まる。どうやら気づいていなかった妻はともかく、ここを去ろうとするヒロインを留め置いて一緒になる道を模索する夫。脅しのような逢瀬の押し付けに毒薬を用意して出掛けるが、気の失いや毒薬を入れた財布喪失で長引き、その間に妻は毒死していた。ヒロインと夫は互いに相手の罪を消し去る為に自白するが、あの放射線医師が近くに開業してて検証に呼ばれ、一年前に毒薬がどこかに消えたを証言する。ヒロインが収監される。
 そしてその刑務所の近くに家を借り、ひたすら彼女に寄り添おうとする愛する男。彼には不可能でも、愛しか存在しない。ヒロインは続く循環を絶ちきる為に北海道刑務所に移送を志願。雪の中、その護送車を追って、ぶり返した結核で倒れる愛する男。が、その護送車には彼女はおらず、愛する男の妻が自ら服毒する前にアフリカの妹に送った手紙で2人の事を周知で、その幸せを祈り自殺に進んだと判り、無罪放免されていたのだ。彼女は不安でひたすら彼の家に向かい、瀕死か、精神は救えるのか、彼と成就か・途絶えか、の抱擁を交わす。
 限界はあれど、その中で自分とその中の誠意は裏切れず、犠牲に身を預ける人らの、懸命故の、知り尽くした者の冷静判断以上の姿勢の保ちが極めて美しく、愚か故のそうではあるまいとする誠実さが、予感と実体として埋め尽くしてくる。この作家の最も自由で、自己本意ながら他者を重んじるかたちの、愛の極限の内容とスタイル。宗教的な罪でなく、相手の愛の威容形に我が身を恥じるか、それをより太く自分に跳ね返し得るか、極度の罪の意識と試練の環境の同質化を越えて、全てを2人をベースにして置き直してく。毒薬ら様々な小物のアップとその位置と中身の押さえ、その確信変移や、2人の逢瀬の一瞬成ったかのようなL図の深み、また全体の流れを塞ぎ絶ちきるような速すぎる切返しやどんでん・角度変のカットと動き収まりの入り、そしてそれらを突き抜ける様な、釈放されての恋人のうちへ向かう、殆んど不可能な望みに向けての走りのフォローカットの終わることのない重ね。それは信念や愛、そして幸せが、生理と感覚の彼方への通過の涯てに、現実を越えた勝利の貴重さとしてあるを表し、本意を意識せずもヒロインが無心に本来的に誰に対しても、月よりの天使だった全体の暖かみの実感の豊潤の上に成されたものである。先に述べたスコセッシの最高作に匹敵する。
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