垂直落下式サミング

サンセット大通りの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

サンセット大通り(1950年製作の映画)
5.0
復活である。
以前から、自分のレビューにプライベートなことパーソナルなこと書くのは極力少なめにしていたが、実に半年ぶりの投稿につき、映画について書く前に一言添えておくことにした。
長いこと止まってたのは、身内に不幸があったとか、なんか大病したとか、違法薬物に手を出したとか、別にそういうのじゃないので安心してほしい。
まあ、私こどきの浮き沈みなんぞを気にかけるほど奇特な人もいないはずであるが、そんなことはわかっていても現代人というやつは自意識という呪いからは逃れられないようで、このユーザーネームがTLに流れてくるのを心待ちにしていた人が幾人かはいるものだと、折り紙つきの付き合いの悪さは棚にあげ、誰かが待っていてくれたんじゃなかろうかと、どこか期待してしまっている。そういうわけなのだ。
独り言をだらだら書き連ねる気難しいバカを不憫に思って、たまに絡んでくれる人はいたが、僕からはあまり熱心にコメント返しした記憶はない。嫌なやつだった。こっちからは明け透けなのに、他人からの距離感には異常な潔癖、そういうビョーキなのだ。でも、僕だって仲間内で返信しあって会話して楽しそうな感じになるやつをやってみたいし、センスよさそうなこと書いてすごいって思われたりとか、日常生活であった出来事のつぶやきが共感を得てめちゃいいね!押されたいんだけど、自分はこういうSNSの楽しさを目一杯まで享受する資格のある人間なのか?って疑問が喉の奥につっかえてスマホ持つ手を鈍らせるわけで。そもそも、フォロワーの大多数が私を認知してる前提で書いてんのがもうなんか恥ずいし、かといってじゃあこの機会に心機一転気になる人にはアクティブに絡んでいく気があるのかっていうと、そんなでもない。イタくて結構。いたって健康。少なくとも、こんな面倒くさいやつと仲好くしてくれる優しい人とは機嫌よくやっていきたい。そう思う。メンヘラだってお友達がほしい。
以上が、映画クラスタ活動復帰にあたっての私の決意表明である。(怪文書おわり)



さて、ビリー・ワイルダーだ。切り替えがはやい。就活中に何度となく口にした私の長所。これは自己分析の結果、取り柄らしいものがみあたらなかった私にセミナーがあてがってくれたものだった。終わったことでくよくよしても仕方ない、それはそれとして今できることを頑張ろう、ハクナマタタ、または植木等、この精神性でいきること、適度ないい加減さは、過去の栄光をひきずる女にも必要な処方箋だったかもしれない。
映画は、なぜ俺は死んだのか教えてやるよと、死者が語りだす不思議な回想ではじまる。
隠遁生活を送るサイレント時代の伝説的名女優ノーマ・デズモンドの豪邸に逃げ込んだ売れない映画脚本家ギリスは、彼女が自身のカムバックのために書いたというシナリオをリライトするゴーストライターとして雇われることになる。気はすすまないが取立て屋から逃れるため彼女の邸宅にあがりこんで脚本を推考しながら日々を過ごしているうちに、だんだんおかしなことになってゆく…というおはなし。
本作は、情緒的なしみったれたウェットとカラッとした明るさが往来し、その物語の転調によって、すべての思いは裏切られ時間の止まったものたちの悲喜劇として締めくくられる。
次第に仕事だけでなく衣食住や私生活すら束縛されていく気味の悪さや、時代に取り残されて活躍の場所を奪われてしまった女の悶々とした不健康が描かれ、意図的にボタンをかけ間違えたかのような居心地の悪い不穏のやり取りが続くが、時折り、この時代のアメリカハリウッド映画らしい気の抜けたお調子者や主人公に思いを寄せる初々しい娘が出て来て息継ぎさせてくれる。
しかし、観客をウットリさせるような映画に出ている俳優女優たちの実生活は、名が売れていなくともそれなりに、売れていればなおのこと、我々が夢見る小市民的な幸せとは相容れない。それが芸能・演芸という世界だ。
さらに踏み込んで、もしかしたら特別な人物たろうとする自分も、実のところ、平凡な有象無象のひとりと変わりないのでは?と、人らしい疑念を持つことさえ許されない「銀幕のスター」という病の実態をみせられれば、観るものの意識はどうしても同情的な目線にまで落ちていってしまう。
ノーマ自身も、山のようなファンレターが工作であることに気付かないはずはないし、かつて業界に君臨し名声を欲しいままにした女が現実をみれないはずはないだろうが、自分は終わった役者なのだと、それだけはどうしても認めることができない。自分を必要としない世界など耐えられない。人々が自分を忘れたなど許せない。事実をどうしても肯えない当人の肩に、それを意識してしまうことによって生じる切実な恐怖が逃れがたい絶望となってのしかかっている。
執事のマックスが自らの人生を犠牲にしてまで彼女に奉仕し荷担するのも、彼にとって、ノーマ・デズモンドは輝けるスター時代のまま、不変の偶像としてこの世に存在するべきものだから。ゆえに、彼女が他の女に男を奪われるような、つまり他の何者かと比較されて劣ることなどあろうはずがないと、その老いを認めるわけにいかないのである。
時間の止まったものたちの踏んじゃいけない地雷をうまく避けながら物語が進んでいくので、外出なんて言い出した日には事情を知らない野暮な輩と接触してしまうのではないかとヒヤヒヤしたが、彼女が旧知の老監督を訪ねてパラマウントスタジオを訪れる場面では、彼女の活躍を知る多くの俳優たちや古株の映画技師に囲まれて、一時、束の間のあいだ、スポットライトに照らされた大女優はかつての栄光を取り戻す。ここで、確かに映画はみせかけの作り事かもしれないけれど、フィルムに焼き付けられたスターの輝きは永遠で不滅なのだと、劇映画という映像文化がもつ希望と可能性が示唆される。でも時代は変わるし、現実での時間は平等。せつない。
それにしても、ノーマ役のグロリア・スワンソン。目を見開いた嫉妬の形相は確かにこわいが、恥じらうように服を直す仕草や、ドア越しに男に甘えた声をかけたり、映画に出ている自分をみてうっとりする様子など、その他の女性的な所作がとにかくキュートで、年を重ねても女としてはまだまだ枯れていないわと言わんばかりの名女優っぷりに見惚れてしまう。主人公が小娘のことで悩むとかいらないと思うんだけどな、こんなにかわいいんだからノーマ一択だ。ヒモでもチンパンジーの代替品でも結構じゃないですか、お金持ちでかわいい、全部を愛したい、ビアンカよりフローラである(最近ドラクエにハマってた。)
プールに浮かんだ男の追想として語られる物語は悲劇を迎えるが、現実を捨てて夢想を生きることを選んだものにとっては、観客に最良の輝きをみせられた入魂のラストカットだったのではないかと思う。
「こんなはずじゃなかったんだよ!」がずっと心のどこかにつっかえて、いつかここじゃないどこかへ行けるんじゃないか、何者かになれるんじゃないか、やはりあそこはビアンカだったんじゃないかと、そんな絶望に満ち足りた人は、この映画の孤独に同化してしまうかもしれない。