垂直落下式サミング

ボウリング・フォー・コロンバインの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

4.6
「凸する」という言葉がある。
これは、「突撃する」という意味合いをもつネット上で使われる略語のようなもので、ニコニコ生放送やツイートキャスティングであるとか、昨今何かと話題のネット配信文化から発生したものだ。架空請求業者や食品偽装が発覚した企業などに電話で直接「実際のところどうなのよ?」と問いただし、その様子を配信する行為を「凸(とつ)」と呼んでいた。この場合は電話という手段を用いて凸することから「電凸」と呼ばれ、リアルで(自宅、会社、あるいは現場に)突撃することは「リア凸」ということになる。
ネット配信文化以前から過激なリア凸を繰り返していた恐れ知らずの暴れん坊が、このマイケル・ムーアという男である。
コロンバイン高校で起きた無差別銃乱射事件を軸にして、アメリカの銃社会問題の奥底に迫るドキュメンタリー作品であり、アメリカ市民にとって銃とは何なのか、政府はなぜ規制できないのか、ムーアが独自の視点で切り込んでいく。
コロンバイン高校の事件をインタビュー映像を交えて要約するシーンは、不謹慎ながらも軽快な編集に引き込まれてしまった。そして取材をしていくうちに、この問題にはアメリカに蔓延する差別意識が根底にあり、市民はメディアによって犯罪への恐怖を植え付けられているのではないかという仮説に至る。次に、「犯人の二人が凶行に及んだのは暴力的な音楽や映画メディアのせいではないか?」という話題に変わるのだが、ムーアは「なぜ誰もボウリングのせいだと言わないんだ?」と切り出し、その語り口が面白い。
この映画で撮される銃規制は反対派のNRA団体や民間の自警団に所属する人々は、「自分の身は自分で守らなければならない」だとか「政府が腐敗したなら市民はそれを倒す権利がある」と主張していて、確かにこれは現在の民主主義という仕組みを形作っているルソーの社会契約説でも認められていることであるし、アメリカの歴史や今彼等がおかれている状況を鑑みれば、民間が武力を持つ権利を守りたいという彼らの心情を責めることはできない。自衛手段として銃を手元に置いておきたい多くのアメリカ人にとっては、いざという時のための自力救済の保証こそが最も重要な権利なのだ。
結局のところ、市民が武器を手放せないのは、政府を信用しきれないからだろう。故に制度を変えようとどんなに頑張っても、それが信認されないジレンマが生じる。「もう銃は要らないだろ」と涙ながらに訴えるオバマ大統領の熱意を目にしても、とは言え体制側の人間の言うことだろう?市民の力を弱めようとしているんじゃないか。けしからんと、不安は拭い去れないのである。
犯人のひとりが曲を聴いていたという理由で楽曲の評価に影響が出てしまったマリリン・マンソンへのインタビューも印象的。マンソンが言うことは的を射ているように聞こえるが、社会的には認識が軽率である。彼は、自分がどんな風評を受けようが歌を聴いて楽曲を買ってくれる一定数の支持層が確実にいることを知っているから、アーティストとしてのポジションを守りながら「関係ないね!」と声高に言えるわけで、まぁ普通は自主規制するのが大人の対応だ。でも、ロック的にはこれが正しい姿勢なのかもしれない。
本作の目的は、なぜ市民は銃を持つのかという疑問に迫り、現状を嘆くことであろうし、ムーアは観客に銃社会の危うさを訴えたかったのだろうと思う。自分が銃を所持することで他人が持つ銃の脅威を遠ざけることができるという考え方は解らんじゃないが、健全な方法とは言い難いし、刀狩りの国に暮らす我々からすれば野蛮な論理に聞こえる。
なぜ、こんなに問題が山積みなのに銃規制をしないのかと思う人もいるだろう。でも「危ないもの・不道徳なものを取り上げたら人は健全になるの?」っていうことの方が僕にとっては疑問であるし、市民が法律をやぶることを当たり前にしてしまった禁酒法という悪例があるのだから、現状の銃規制は悪手でしかないという事実はしっかりと受け止めるべきだ。既に持っているものを取り上げるのなんて現実的に無理だし、そんなものは気休めにもならない。
兎も角、何も知らずにみても勉強になるし、知恵をつけた後にみてもおもしろい傑作である。